さよなら、カノン
ダイニングテーブルに置かれたキャンプ用のランタンが停電の室内を仄かに明るく照らす
濡れた頭髪をバスタオルで拭きながら携帯電話で通話する正樹
正樹 「実穂子がケータイを置いていくなんて今まで一度もなかった」
福住 「心配なお気持ちはわかります。でも何か事情があって持ちだせなかったのでは?」
正樹 「今朝は二人とも機嫌良さそうだった。実穂子もカノンもニコニコしていた」
福住 「だからきっとお二人でお出かけして遅くなっているだけなんですよ」
正樹 「実は夕べ、ちょっと言い合いになって。手をあげてしまったんです」
福住 「手をあげた・・・?」
正樹 「はい」
福住 「まあ、どうして?」
正樹 「実穂子がカノンのことを、要らない子、だと。しかもカノンが聞いてる前で」
濡れたワイシャツからスウェットに着替える正樹
福住 「まあ酷い。どうしてそんなことを?」
正樹 「カノンが戻ってきてから、実穂子の様子が変なんです。情緒不安定というか」
福住 「大丈夫。帰ってきますよ、吉川さん。信じて待ちましょう」
正樹 「いや今度は違う」
福住 「何が違うんです?」
正樹 「なくなっているんです、土を掘るスコップが。物置小屋から」
破れたフロントガラスから激しく雨が降りこみ実穂子の髪を濡らす
意識を取り戻した実穂子がハンドルに打ちつけた額を指先で触る
実穂子 「痛っ」
痛みの出所がわからない実穂子
助手席ではぬいぐるみの腹に顔を埋めてぐったりしているカノン
リアウインドウが破壊され雨が車内に流れこんでいる
実穂子 「カノン」
返事はない
車の外に視線を移す実穂子
変形したボンネットの下から湯気とも白煙ともつかぬものが湧きたっている
稲妻が光る
その光でサーブが鳥居に激突したことを悟る実穂子
白煙が床から車内に流れこむ
シートベルトを外してドアを開けようとノブをひねる実穂子
ノブが空回りしてドアが開かない
白煙でせき込む実穂子
ううっとうなり声をあげるカノン
ぬいぐるみから顔を離すカノン
顔に降りかかる雨に目が開けられないカノン
カノン 「ママ、どこ?」
実穂子 「カノン、シートベルトを外しなさい」
ドアを足で蹴る実穂子
しかしドアが開く気配はない
運転席の窓を手動で降ろす実穂子
窓の外に手を伸ばしてドアの外側からノブに指をかける実穂子
ドアが開く
転がるように車外に出る実穂子
稲妻が走るたびに周囲の様子が見えてくる実穂子
鳥居の脚の台座部分に衝突して白煙をあげるサーブ
雨は激しく降り続き山から滝のような泥水が道路に溢れている
落石や滑り落ちてきた倒木や折れた木々が道路を覆い隠す
太い幹の倒木やひと抱えはある巨石が鳥居の足元に流れつき滞留している
鳥居は圧力を受けて湖側に傾いている
鳥居の台座から地面に亀裂が伸びている
その亀裂の上にサーブのタイヤが乗りあげている
よろけながら立ちあがる実穂子
実穂子 「カノン、早く」
シートベルトを押し広げようとするカノン
カノンの腹部に貼りついてびくともしないシートベルト
カノン 「ベートが外れないよ」
実穂子 「ふざけてないで、早くしなさい」
なおもシートベルトを手で押し広げようと格闘するカノン
カノン 「ベートが外れないの」
実穂子 「左側に赤いポッチがあるでしょ。それを押すの」
ぬいぐるみを手放し赤いポッチを捜すカノン
へしゃげたドアに挟まってバックルの赤いボタンがカノンから見えない
実穂子に向かって首を横に振るカノン
カノン 「ママ、わかんない。ママ、助けて」
サーブのタイヤ下の亀裂が目に見えて広がる
鳥居の傾きがさらに大きくなる
傾いた地面に立ち続ける実穂子
実穂子の表情から喜怒哀楽が消える
カノン 「ママ・・・ママ・・・」
無表情でカノンを見つめる実穂子
柵の鉄チェーンが支柱もろとも崩落し崖下に落ちていく
サーブのタイヤが地面の亀裂にはまり車体が湖側に傾く
一歩退いてカノンを見つめる実穂子
咳きこむカノン
ぜーぜーと苦しそうな息遣いになるカノン
呼吸が浅くなり目で実穂子に助けを求めるカノン