Dollface
分かりきっていたことだが、問題児グループに入った初日に、まず洗礼があった。相手は矢田という名前の六年生で、林野の手首を折ったおれの握力がどれぐらいあるのか、聞いてきた。弱いのが気管だけで力は強いことに気づいたのは、このときだった。自分の手を握らせて面白がっていた矢田の顔色が変わり、『離せ』と言ったが、おれは『声を出すな』と応じた。矢田は林野と同じで声を出し続け、おれは手を捕まえたまま、親父がやっていたように矢田の頭に拳骨を入れた。このときも、充分に殴った後は、矢田は声を出さなくなった。殴られ過ぎて左耳の鼓膜が破れていたらしいが、おれからすれば、新しい世界が開けた気分だった。中学校に上がって、自分の考えを証明する機会は一気に増えた。かつて小学生だった自分を追い回していた不良が真面目に働いているのを見つけたおれは、バイクで帰ろうとするところにレンガブロックを投げつけて倒した。『丸尾』と書かれた名札を見て初めて名前を知り、『静かにしろ』と言いながら、家までついていった。家には奥さんと小さな子供がいて、丸尾とは比べ物にならないぐらいにうるさかった。でも、悪いのは丸尾本人で家族には罪はないから、手は出さなかった。これで初めて警察のお世話になり、自分の行動が警察に捕まるような犯罪だということを、身をもって理解した。そのころになると親父は気管を完全に壊していて、『なんとか対策会』も辞めて家にいることが多くなっていた。怖がる必要がなくなった分、考え事をする時間も増えた。
丸尾を痛めつけたことは、不思議と頭に残っていなかった。やってやったとも思わなかったし、日が経つにつれてその顔すらも忘れてしまった。どういうわけか、林野の手を折り曲げたときの記憶の方が鮮やかで、丸尾のときも覚えているのは奥さんの顔だった。二人に共通しているのは、大きな目だった。輪郭がはっきりしていて、普通の人よりもたくさん物が見えているのではないかと思えるぐらいに、ぱっちりとしていた。
おれが忘れられないのは、その目を大きく見開いた泣き顔だ。
自分の性質をはっきり理解したおれには、もう悩む必要などなかった。自分の手が手当たり次第に放つ暴力とその動機が、はっきりと分解されたのだ。それからは一転して真面目な生徒になったが、簡単に暴力を振るうという噂が広まってしまっていて、友達と呼べる人間は全くいなくなっていた。しかし、自分がどういう人間かを理解しているおれからすれば、いつ敵になるかも分からないような他人は、もう必要なかった。
しばらくは安泰だったが、高校を出た年に親父が死んだ。子供のころに食らった仕打ちについて恨む気持ちはなかったし、肺を壊して死んだ以上、むしろ例の『なんとか対策会』で闘っていた意義を初めて理解できた気がした。
進路指導の先生はおれの気管が弱いことを心配していて、パソコンの仕事がこれから増えるから、そっちの勉強をするよう薦めてくれた。卒業後、しばらくは体力仕事で生活していたが、二十歳になったときにふとアドバイスを思い出して、後輩が買ったばかりのパソコンを触るようになった。アルバイトをしながら専門学校の授業を受けて、コンピュータ関係の会社に入社したのは、二十二歳のときだ。
その頃から、おれの人生には人が増え始めた。ひとりは同期の森山で、遊び人。もうひとりは事務の笹田で、男二人に紅一点という組み合わせでよく遊びに行った。仕事も順調で、何の悩みもなかった。ある日、恒例になった飲み会を終えて商店街を三人で歩いていたとき、おれは無意識に足を止めて振り返った。ちょうどすれ違った女が、林野にそっくりだったのだ。顔は全く似ていないが、そのはっきりとした輪郭の目が、殆ど本人ではないかと思えるぐらいに、よく似ていた。顔を覗き込んだ森山に『お前、たまにすげー怖い顔するんだよな』と言われ、自分が『目』のことを考えているときは、顔が怖くなっているということに気づいた。
それからほどなくして、森山は退職して会社を興した。元の会社に残ったおれは、笹田と交際を始めた。森山は数年後に海外に出たが、それまでは友人関係が続いた。笹田と付き合っていることを報告すると、『笹田はずっとお前のことが好きだったろ。よく気づかない振りができるなって、不思議だったよ』と言って、笑っていた。焼肉の煙で森山の顔はよく見えなくて、誰に言われているのかということが、ふと曖昧になった。
好かれること自体は嬉しいが、おれは笹田の好意に全く気付かなかった。自分がおかしいのではないかと思ったとき、ふと拳骨が頭によぎった。頭の芯が痺れるような痛みだけでなく、林野の手を曲げていたときに伝わってきた、骨が折れるときの感触まで。全て、工場の風下にあった町での話だ。子供のころのおれを知っている人間は、今のおれを見ても本人だと気づかないだろう。顔つき自体が違うし、仕事帰りにスーツ姿で焼肉屋に座っているなんて、当時からすれば最も遠いおとぎ話のような世界の話だ。しかし、いくら理屈や言葉で切り離せても、頭の中は地続きだった。
『お前、急に手を止めるなって』
森山が慌てて、焦げ始めた肉を猛スピードで回収していくのを見ながら、おれはふと思った。色んなことを言われてきたし、中には酷い言葉もあった。全てを覚えているわけじゃないが、酷かった順番であることは確かだ。ショックだったのは、その言葉のどれもが、超能力者のようにおれを完璧に言い表していたということ。何かが欠けていて、それは元からなかったのか、拳骨を食らいすぎて飛んだのか、おれには分からない。ただ、『普通』の物真似を今後も続けなければならないのは、間違いない。今だって、おれが手を止めるのと同時に、森山が慌てる羽目になっている。
普通であることを勉強したおれは、笹田と一年間交際し、二十四歳のときに結婚した。加地孝夫と、加地直美。そこに娘の沙也が加わったのはさらに二年後で、平成十八年のことだった。当時のIT企業と言えばパワハラに徹夜が当たり前で、事務という立場でその仕事ぶりを見ていた直美は、職場からロクに帰ってこないおれに対して、かなり理解があった。おれはおれで、残業代をひたすら稼いで、沙也が三歳に上がったときに中古の家を買った。商店街を境目に分断されたような古い住宅地で、上を見ればキリがなかったが、おれとしては早くひとつの場所に落ち着きたかった。それから長い間、順調だった。沙也が小学校に上がり、おれはプロジェクトリーダーを任されることが普通になった。直美は専業主婦になり、理想の家庭がようやく形になった。
おれの前にあの『目』が現れたのは、沙也が五年生に進級する年だった。そのとき初めて気づいたのは、林野や丸尾の奥さんが例の目を持っていたのではなくて、おれが自分の頭の中にある何かを重ねて、『あの目だ』と思ってしまっているということだった。そして、それはおそらく、自分でコントロールできない。なぜなら、例の目は沙也に重なっていたからだ。おれは自分の娘を痛めつけようなんて、考えたこともなかった。