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オオサカタロウ
オオサカタロウ
novelistID. 20912
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Dollface

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 おれが生まれたのは昭和五十五年、実家は、工場地帯が目の前に見える灰色の町の外れにあった。加地家は、煤煙に巻き込まれることが大前提の場所に家を建てながら、その煙に対して最大限の文句を言うという、子供だったおれが気づくぐらいに矛盾したことをやっていた。親父は、公害なんとか対策会みたいなグループの一員で、煙が流れる方向を変えろとか、無茶なことを言っていたらしい。母親はおれが四歳のときに、町ごと愛想を尽かして出て行った。
 生まれてからずっと煙を吸っていたからなのかは分からないが、おれは気管が弱かった。全く動かない壁相手に押しくらまんじゅうをしている親父からすると、情けない存在に映っただろう。小学校に上がるのと同時に特別扱いは終わり、声が細いことを馬鹿にされるようになった。よく言われたのは『そんなんで、腹の底から声を出せるか』ということで、息を深く吸い込むだけでしばらく咳き込む羽目になるおれからすれば、土台無理な要求だった。怒らないからやってみろと言われて、その言葉を頼りに息を吸い込んで結局咳き込んだとき、確かに怒られることはなかったが、代わりに拳骨が頭に飛んできた。次の日からは、『途中までしかできない深呼吸と拳骨』が日課になった。
 保健室で先生に心配されたのは、小学校三年生のときだ。おれは学校での評判は悪くなくて、実際には逆らうほどの元気がないだけなのだが、先生には可愛がられていた。保健室の先生に痣があると言われ、頭に拳骨を食らいすぎたのかもしれないと思って、初めて不安になった。おれの当時の心配事は、友達が言っていた『殴られると脳細胞が死ぬ』という話で、そんなことがあるとしたら、おれは相当アホになっているに違いないと思っていた。友達曰く、脳には色んな部品があって、ただアホになるだけならいいが、何かが全く分からなくなってしまったり、そういう変な壊れ方をすることもあるらしい。一番怖かったのは、交通事故で頭を打った後に利き手が入れ替わってしまった男の話だった。小学生からしたら、死活問題だ。利き手が入れ替わるなんてことが起きたら、字を書く練習をイチからやり直さなければならない。今思い返せば、ずいぶんとしょうもないことで悩んでいた。
 親父の拳骨で機能が弱ったのか、元々なかったのかは分からないが、おれには普通の人間なら利くはずのブレーキがなかった。そのことに周りが気づいたのは、小学校五年生のときだった。当時、学童に来ていた中に帰る方向が同じ下級生がいて、おれのことは孝夫という下の名前を縮めて『タカくん』と呼んでいた。女子だったし二歳も年下だったから話が合うはずもなく、おれはできるだけ相手をしたくなかった。だから、周りが『こゆきちゃん』と呼ぶようにどれだけ促しても、頑なに苗字で林野と呼び続けていた。特に世話をする必要はなかったが、家が同じ方向という薄い共通点のせいで、林野は常におれの近くにいた。
 そのまま平行線を保っていればよかったのだが、ある日、一緒に帰るように言われた。近所で子供を狙った事件が起きて、犯人が捕まっていなかったからだ。三年生を五年生が守れるわけなどないが、当時は何でもありだった。
 おれは、帰る時間が違うといって粘った。実際、帰る時間は林野の方が先で、おれは親父が酒を飲んで寝込む時間を逆算して遅く出ていたから、この提案は大迷惑だった。家に早く帰りすぎると例の拳骨タイムがあるし、外は外で不良がうろついているから、見つかったら全力で逃げないといけない。
 しかし、要求は受け入れられることなく、おれは林野と一緒に帰った。とりあえず、ひたすら早足で歩いて解放されようと思っていたら、学童を出たときは普通だったのに、林野は途中から泣き出した。おれが何も聞かずに歩き続けていると、家に帰っても怒られるだけだから学童に泊まりたいとか、無茶苦茶なことを言い出した。おれは家に帰るように言いつけられているし、早く学童を出た分、不良から隠れる場所を見つけないといけない。人の悩みを聞く余裕なんて、あるはずもなかった。
『泣くな』
 おれが言っても、林野は聞かなかった。学童と家を繋ぐ道までが敵に回ったみたいに、余計に泣き出した。今でも覚えているが、それまで何もないと思っていた場所に火花が走ったのは、そのときだった。拳骨を食らいすぎてあちこち電気が消えた頭の中で火花が飛び、何かがパシッと繋がった気がした。もう一度『泣くな』と言い、次に『泣くのをやめられるか?』と訊いた。林野が首を横に振ったから、その手を掴んで、関節の方向と反対向きに捻じ曲げながら再度訊いた。何かがおかしいことに気づいて黙ろうとしても、同じ言葉が機械みたいに、何度も口から飛び出した。体も全く言うことを聞かず、手を曲げている内に湿り気のある破裂音が鳴り、林野の泣き声が悲鳴に変わった。
 林野は病院送りになり、小指と手首の骨が折れていたことが分かった。正直に経緯を話しても、共感してくれる大人はひとりもいなかった。おれに林野を任せた先生からは『あんたが、逃げてる犯人みたいなもんだね』と言われ、学童では問題児グループに送り込まれることが決まった。問題児と言われても、特に理不尽とは思わなかった。できないことを無理にやらせようとして罰を食らわせるなんて、親父と同じだからだ。
 その後、家では深呼吸に関係のない拳骨が何発も飛んできて、それが止まるのを待ちながらも、おれはどこか冷静だった。頭に浮かんでいたのは、林野の手を折ってからずっと不思議に感じていたことだった。救急車を呼んで待っている間、林野は泣き止んでいた。つまり、おれの言うことを聞いたのだ。骨が折れるなんて、拳骨の痛みどころじゃないはずなのに。もしかしたら、今のおれも同じかもしれない。そう思って、おれは頭がじんじんする中、息を思い切り吸い込んでみた。もう吸えないところまで肺が膨らんだとき、いつもの喉が押し返されるような感覚が全く起きることなく、おれは息を全部吐き出すことができた。
作品名:Dollface 作家名:オオサカタロウ