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第一印象と二重人格の末路

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「ミステリーにおいて、ほとんど出尽くした」
 といってもいいトリックも、
「これからは、バリエーションを生かして、それぞれにパターン化されていく時代がくるのではないか?」
 と言われてきたことで、現代のミステリーの形ができているのではないだろうか?
 これが、進化系かどうかは分からないが、
「昔の小説がよかった」
 と考える人がいるのも事実であった。
 同じような作品を、書いている方は、
「前から違和感があった」
 といってもいいだろう、
 しかし、作品を書いていると、書けば書くほど、前の作品に似てきたりして、まるで、
「続編を書いているようではないか?」
 と感じるようになるのだ。
 そんなことを考えて書いていると、次第に、
「ああ、自分の文章が確立していっているんだな?」
 という安心感が生まれてきた。
 それと同時に感じたのは、
「感覚のマヒ」
 であった、
 いきなりそっちに向かったわけではなく、文章を書くことに慣れを感じてくるようになり、それが、次第に感覚をマヒさせる気分になってくるのだ。
 それは、
「一度、耐えがたい何かにぶつかって、そこを克服することで求められるものではないか?」
 と思うのだが、その、
「耐えがたい何か?」
 というのが、人それぞれの重たさというものが、ピンからキリまであるはずなので、皆が皆、感覚がマヒするところまで行くとは限らない。
 ただ、小説家になるには、その限界が、結界のようなものであり、それを突破できる人間でないと、なることができないともいえるだろう。
 小説家というと基本的に、なるためには、いろいろなパターンがあるだろうが、ほぼほとんどの人が通り抜けてきた方法として、まずは、どこかの出版社系のコンクールで入賞するというのが大前提となり、そして、そこで次回作が求められる。
 その次回作というのは、入賞作を超えるものでなければいけないのだろうが、ほとんどの作家が、受賞作で、ある程度の力を出し切ったと思い込んでいる。
 実際にそうなのかも知れないが、入賞してしまうと、何かの、
「燃え尽き症候群」
 のようになってしまう。
 正直、小説を生み出す頭が、まさか、
「消耗品だ」
 とは思えないが、もし、消耗品だったのだとすれば、そこから先には何があるというのだろう?
 最初がピークだったとすれば、そこからは、それ以上の作品を生み出すことができないのだということになり、小説家としては生きていけないことになる。
 ただ、これも、読者に個人差があるのだから、作家によっては、編集者のいうように、
「とにかく、売れる本を書いてください」
 ということに忠実に書ければ、生き残っていけるだろう。
 しかし、作家のプライドや自尊心で、
「俺は、売れる本ではなく、書きたい本を書くんだ」
 という信念を持っているとすれば、いくら、途中から売れないことが、自分のプライドが邪魔をしていると気づいて、売れる作品を書こうとしても、
「気づいてしまった」
 ということで、どんなに頑張っても、前作を超える作品を売れるものとして書いているはずなのに、世間に受け入れられることはない。
「俺は妥協したのに」」
 と思うのだが、
「妥協した作品に、いい作品はない」
 という当たり前のことも分からないほどになっているのかも知れない。
 その時、
「自分の才能は消耗品なのではないか?」
 と感じてしまうと、もう作家としては、そこが限界なのかも知れない。
 そして、そこが、
「プロとアマの違いなんだ」
 と考えることだろう。
 だが、実際に、
「小説を生み出す脳は、消耗品などではない」
 と思っている作家は多いようで、ただ、生き残っていけないのには、そこに、
「書きたいものを書く」
 という信念のような気持ちと、
「売れるものを書かなければいけない」
 というリアルな気持ちとの葛藤が、ジレンマを呼び、そのあたりに、作家になるための、結界が潜んでいると言えるのではないだろうか?

                 大団円

「小説を書いていくうえで、何が大切なのだろう?」
 と、吾郎は考えていた。
 吾郎は、社会人になって、30歳くらいまで、会社の第一線で働いてきて、それが、主任となるうちに、第一線の仕事は部下にやらせるようになり、自分は監督であったり、設計の方に回るようになってきた。
 仕事内容が変わっても楽になるとかいう感覚ではなかったが、どこか面白みがなくなってくるのを感じたのだ。
 それによって、仕事に身が入らなくなってきたのだが、最初はその理由がよく分からなくなっていた。
 その理由に関しては、正直ハッキリと言葉に出して言えるようなものではなかったが、やる気がそがれてきたのも事実だった。
 その頃、大学時代に本を読むのが好きだったのを思い出し、少しの間、本を読むことに熱中していた。それなりに楽しいのだが、やはり、何か物足りない。
「そうだ、俺は自分で何かを作り出すということが好きな人間なんだ」
 と、いまさらながらに感じたのだった。
 実は、すぐに、
「そんなことは、ずっと前から分かっていたんだ。だから、第一線から遠ざかった時に、何か物足りないと思ったのも無理もないことだったんだ」
 と考えたのだが、
 自分で分かっていたといっても、それを自覚していなかったのは事実であり、
「自覚がないのだから、いくら何を言っても同じではないか?」
 というのは、自分が本当は先にしようと思っていたことを、先に相手に指摘されると、これほど腹が立つことはない。
「それ、俺も考えていたんだ」
 と言ったとしても、相手から、
「考えていたんなら、なぜやらない? それだったら、考えていなかった方がマシじゃないか?」
 と言われたものだが、ズバリ指摘されると、何も言えなくなる。
 そう、何も言えなくなる自分が悔しいのだ。
 その悔しさがどこから来るのか。それが問題なのだが、
「自分が正直に話をしても、言い訳をしているかのように思われることが、どうにも悔しい」
 ということになる。
 しかも、自分が、
「言い訳というものほど、嫌なものはない」
 と思っているからだ。
 まわりにも平気で言い訳をして、ハラスメントを免罪符のように使い、相手に何も言わせないようにしている連中を見ていると腹が立つ。そういう連中こそ、
「言い訳は言い訳でしかない」
 と思うが、言い訳される方は、
「本当にそれ以外にはない」
 と、考えることだろう。
 つまりは、一度言い訳だと思われてしまうと、何を言っても、
「こいつは、結局言い訳に逃げるやつだ」
 と思われることで、
「最期には必ず言い訳に逃げる」
 と思われるに違いない。
 それを考えると、
「第一印象で、思われたことが、何をおいても、その人間によって、性格を作られてしまうのではないか?」
 と思われることであろう。
 そんな、仕事に若干の疑問を感じた時、
「小説を書いてみたい」
 と思うようになった。
 それは、一つ考えたこととして、
「俺って、二重人格なのではないか?」
 と考えるようになったことだった。
 それまでは、