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最後のオンナ

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 と思うようになったのだが、それを感じたのは、自分が子供の頃、承認欲求が強かったことを自分なりに感じたからだ。
 自分では思い出せないが、子供の頃は子供の頃で、コンプレックスがあった。そのコンプレックスを解消しようと、なるべくまわりに自分を分かってもらうべく、目立とうとしていたのだ。
 しかも、人の会話を押しのけてまで前に出ようとすると、それはさすがに周りから白い目で見られ、次第に鬱陶しがられるようになるのも仕方のないことだろう。
 そんなコンプレックスというものが、自分の中にあるとは分かっていなかったので、まわりが自分から遠ざかっていくのがどうしてなのか分からなかった。
 無理にでも追いかけようと思えば追いかけられたのだろうが、どうしても、足がすくんでしまった。
 もし、あの時強引にでも、逃げる人を追いかけていったりすると、まわりから苛めの対象になったかも知れないと思った。
 ちょうどその時、ハッキリと他に苛めのターゲットがいて、結果、その人が苛められなくなるまでにかなりの時間を要したことで、何とか自分に火の粉がかからなくてよかったのだ。
 苛めをしている連中は、相手が誰であれ、苛めをやめることはできないのだろう。苛める相手がいないからと言って、苛めなくても我慢できるのであれば、自分が苛めに怯えることはないのだろうが、どうしても、まわりから苛められたらどうしようという気持ちが離れなかったのは、まわりの視線に、
「ちょっとでも油断すれば、つけこんでやる」
 とでも言いたげなものを感じたからだった。
 苛めを実際に受けたわけではないが、いつも精神的には苛めを受けているような恐怖があった。それを被害妄想というのだろうが、それだけ、いつ、自分が苛められるようになってもおかしくないと感じていたのだが、その時に感じたのが、
「苛める側でなければ、安心はできない」
 ということであった。
 つまり、苛められている人は最初から安心などはないが、苛めに関係していない第三者、いわゆる、
「傍観者」
 と言われる人たちだって。
「いずれは自分たちが苛められることになるんだ」
 ということが分かっている。
 もちろん、ほとんどが被害妄想による、幻影なのだろうが、いつも心の底で怯えているのは間違いないのだ。
 苛めという行為が招く、その場の雰囲気は、当事者の様々な思惑を感じさせる。
 苛められている人間は、苛めっ子に対して、
「逆らうと、もっとひどい目に遭わされてしまう」
 という思いから、逆らうことをやめて、ただ、その時をエスカレートさせず、ただ、やり過ごすだけを考える。
 そして傍観者に対しては、基本的には何も感じない。苛めっこに対してだけ見ているだけでも大変なのに、いちいち傍観者の視線など感じる余裕などないはずだからである。
 だが、もし感じるのだとすれば、
「一番恐ろしいのは、お前たちだ。いじめっ子は確かに悪いが、あいつらは、気持ちで感じていることを態度に表すから、まだわかりやすい。こっちがやり過ごそうとすればできるのであって、お前たち傍観者は、きっと容赦しないんだろうな」
 と感じたのだ。
 だが、傍観者の中にもいろいろいて、
「傍観していないと、俺たちまで苛められる」
 と思っているのだ、
 下手にいじめられっ子を助けでもして、今度はターゲットが自分に変わってしまうのであれば、全体から見て、何の解決にもなっていない。
「余計なことをしたばっかりに」
 と思う。
 それは誰が考えても同じことで、
「だったら、何もせず、何も感情を持たずに、その場をやり過ごす」
 と思っているのだ。
 これは、いじめられっ子と感覚は同じである。
「やり過ごす」
 という思いは、いじめられっ子が、実際に受けている被害であるのに対し、傍観者たちにとっては。
「一歩間違えれば、いじめられっ子はこっちになってしまう」
 という被害妄想を抱いてしまう。
 そうなると、不安というのはどんどん膨れ上がってしまい、不安を解消することはできないが、
「目の前で苛めを受けているやつが、自分だったら」
 というリアルな思いがさらなる新しい考えとして、頭に浮かんでくるのだった。
 つまり、実際に自分の身に置き換えて考えられる事実が目の前で繰り広げられているわけだから、それこそ、
「触らぬ神に祟りなし」
 と思うのも、無理もないことだろう。
 自分のことを苛めているところを、目の前で苛められている人間がいることで、重ねて見てしまうと、逆らうことはおろか、
「いずれは、我が身」
 ということで、よりリアルに感じさせるのだ。
「苛めが行われている時、何もできずに、傍観している連中も同罪だ」
 といっている人もいるが、実際に苛めの現場に遭遇した時のその雰囲気を、本当にその言葉で言い切れるのかどうか?
 そんなことを考えていると、それこそ、そんなことを言っている、
「評論家気どり」
 の連中が、どれほど他人事であるかということだ。
 まったく被害が及ぶことのない、
「蚊帳の外」
 にいて、
 同じ傍観者とはいえ、いつ自分が被害者になるか分からない人を非難できるというのは、ありえないと言えるのではないだろうか?
「同じ傍観者でも、当事者ともなると、そうはいかないのだ」
 と、当事者としての傍観者は、火の粉が飛んでこない、飛んでくるはずもない場所から好き勝手言っている連中が、憎らしいというくらいに感じていることだろう。
 いじめられっ子も、傍観者も、どちらも、実質的なという意味と、妄想でという意味で、直接的な被害を受けている。加害者としては、苛めっ子なのだが、彼らがすべて悪いというのだろうか?
 正直、苛めっ子になったことがないので、その心境は分からないが、
「一度、誰かをターゲットにして苛めというものをしてしまうと、満足がいくまで、苛めが辞められないのではないか?」
 と感じるのだ。
 しかし、苛めを実際に辞められない。つまり、ターゲットが変わってでも、苛めということをやめる気配すらまったくないというのは、彼らは彼らなりに、
「どんなに誰かを苛めても、満足感が得られない」
 ということだろう。
「満足感が得られないということは、自分が納得できていない」
 ということであり、時間が掛かればかかるほど、不安が解けることはなく、どんどん苛めがエスカレートしていくのだろう。
 最初はそういう理屈も分かっているのだろうが、今度は感覚がマヒしてくる。彼らは自分がどうしてやめられないのか、考えれば分かることを考えようとしない。
 そのことを考えられるのだとすれば、苛めなど、すぐにやめることができたであろう。
 苛めがやめられなくなるまでに、おそらく何度か、やめることができるというターニングポイントはあったはずだ。
 そのことに気づかないのか、やめようとしたがダメだったのか、後者ではないかと思うのだ。
 なぜなら、
「やめようと思えば思う程やめられなくなる。つまり、最初にやめることができなければ、それ以降は、どのようにしようが、やめることができないエリアに、入り込んでしまうからだろう」
 と感じるからだ。
 つまりは、苛めっ子だって、
作品名:最後のオンナ 作家名:森本晃次