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風俗の果て

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 ただ、当時はスマホなど、存在もしていなかった時代だったので、一般の人が、GPSなどの存在は知っていても、警察や軍などの特殊任務を持った人だけのことであり、一般市民には関係のないことだと思っていたことだろう。
 その後、
「大体の帰宅時間にパトロールを増やしますね」
 というような、まるでアナログ時代のことくらいしかしてはくれないのだ。
 要するに、
「警察というところは、人が死んだり、事件が起きない限りは、何も動いてはくれないのだ」
 ということなのであった。
 それを身に染みて分かっているので、女の子が、危険と隣り合わせなのではないかということも気になっていた。
 だが、さすがに、事件が起こっているという話を聞かない。
「大げさな事件にならないだけで、似たような事件は、毎日どこかで起こっているのではないか?」
 と思ったが、
「風俗嬢にストーカーなどという事件、マスゴミが飛びつかないわけはない」
 といえるだろう。
 そうなると、
「やはり、ちょっとした事件はあるかも知れないが、事件として報道されるほどのことはないんだろう」
 しょせんストーカーといっても、ヲタクの小心者が多く、そんな度胸もないと考えてみたが、そうなると、怖いのは、店の客というよりも、お金もなくて、風俗通いすらできない連中ではないか?
 と思えるのだ。
 お金があれば、店に行けばいいだけだ。普通の女の子には相手にしてもらえなくても、優しくしてくれる天使のような笑顔の女の子たちがたくさんいるじゃないか?
 不況で働き口がないというのは、ある意味いいわけである。
 どこかに勤めてみたが、まったく人とコミュニケーションが取れず、まわりが歩み寄ってくれているにも関わらず、自分から避けてしまって、結局、
「自分には向かない」
 と勝手に思い込み、挙句の果てに、
「不況で働き口がない」
 などと言っているのであれば、それは、自業自得である。
 そんなやつに、ストーカーをするほどの度胸があるとも思えない。事件がないように見えるのは、本当に狙われるようなことがないからなのかも知れない。
 ただ、人間、どこで恨みを買っているか分からないのは、風俗関係の人であっても、他の業界で働いている人であっても同じだ。それを思うと、
「何がストーカーなのか? そもそも論になるのではないだろうか?」
 そんなことを考えていると、風俗の世界も大変なことに気づいたのだ。

                 大団円

 ここから先、何が大団円なのか分からない。
 大団円というと、そのほとんどが、ハッピーエンドなのだが、著者の作品のほとんどは、最期の章を、いつも、
「大団円」
 で締めくくっている。
 最後の章に名前をつけるのが面倒だともいえるのだが、つける気がしないと言った方がいいかも知れない、
 それは、どこか、強引に締めくくろうとするからで、このお話もその類に漏れることはない。
 マサムネがソープから離れた理由は、確かに、
「30代を超えてからの毎日が、あっという間に過ぎていくことで、その回数が減っていった」
 そして、その感覚が次第に慣れを呼んできて、
「行かないのなら行かないで、我慢できないわけではない」
 と思うようになると、自分がまるで大人になり、一皮むけたかのような感覚になったのだ。
 しかし、逆に考えてみると、
「女の子の身体に飽きてきた」
 という感覚もあった。
 しかし、この感覚は、実は矛盾している。
「飽きがくるというのは、それだけの頻度が、必ずどこかに存在しているからだ」
 といえるからではないだろうか?
 というのも、ズルズルと長く続けていたとしても、いきなり、
「もう顔も見たくない。身体にさわりたくもない」
 というほどの嫌気が刺すほどの、飽和状態が訪れたわけではない。
 本当にそこまでの域に達するためには、常習的な感覚だけではなく、きっかけとしての突然訪れるものがなければ、飽きというものは、簡単に訪れるものではない。
 それは、マサムネだけが感じている感覚なのか、他の人も感じていることなのかまでは分からないが、正直、他の人がどのようなことを感じたり考えているかということを、話もせずに分かるなど、聖人君子でもない限り、ありえることではないだろう。
 そんな飽きが来た瞬間が、必ずどこかであったはずなのだが、それが思い出せない。
 そのせいで風俗から一時期いなくなったのだが、急に戻るということになったのは、そこにも、何かきっかけがあったのだろうか?
 目に見えているきっかけがあったわけではない、ただ、身体がムズムズしたことで、足が風俗に吸い寄せられたわけでもない。
 ただ、
「吸い寄せられた」
 という感覚に間違いはないのだが、身体が反応したからではなかった。
 ということになると、
「どこか、懐かしさのようなものが、心地よさとなって、思い出されてきたからではないか?」
 と思えた。
 昔はお気に入りの女性がいて、その人に入っていれば、それだけでよかった。飽きがくるなど、考えたこともなかった。
 しかし、もし、飽きがきたのだとすれば、それは、30代に入って、行く回数が減ってしまったことが弊害となったのではないだろうか?
 行く回数が減ったことで、自分では、その時は飽きるということに対して、想像もしていなかっただけに、回数が何かの影響になるなどということを考えたこともなかった。
 しかし、まさか、行く頻度が減ることで、飽きが目立つようになるとは、想像もしていなかった。実際にすぐには、理解できるものでもなく、正直、今でも信じられないでいるのだった。
 そんなことを考えていると、
「俺の風俗通いって何だったんだろう?」
 というものだった。
「彼女たちから、サービスをしてもらい、自分の癒しにしてもらう」
 ということだったのではないだろうか?
 そのために、お金を払うのであって、だから、まわりで毛嫌いしているような風俗とは種類が違うものだと思っていた。
 ありがちな発想だが、
「俺が通っている風俗というのは、世間一般で毛嫌いしている人の風俗とは違うものなのだ」
 と考えていた。
 しかし、世間一般が毛嫌いしているわけではなく、
「そんな毛嫌いする連中がいる」
 と思っていることで、そんな連中がいるとして、
「何をどう毛嫌いしているのかということを自分の中で理解しようとして、まわりの幻影を自分の中で抱え込んでしまったのではないか?」
 と考えているのだ。
 つまり、まわりが考えていると思うのは自分の幻想であり、確かに毛嫌いをしている人も一部にはいるだろうが、決して人と共有はしていない。
 考えれば分かることで、人に自分がそんなことを考えているということを知られることが恥ずかしいと思っているのだから、自分からそれを他人に公表することはしないだろう。
 しかし、一度公表してしまうと、
「何だ、お前もそうなのか?」
 と、どんどん仲間が増えていき、その感覚が、皆のまわりに群がっていく感覚が生まれるのではないだろうか?
「要するに、風俗に対しても偏見は、妄想にすぎないのだ」
 といえる。
作品名:風俗の果て 作家名:森本晃次