Firehawks
糖尿病が人生を完全に乗っ取ったのは去年で、ちょうど六十歳になったときだった。ショットバー経営は昼夜逆転の仕事で、店員兼賑やかしのキョウコは十五歳年下。それで十年ほど順調にやってきたつもりだったが、体調はずっと悪かった。体が『もう無理です』と根を上げるのと同時に、精神面も歩調を合わせるみたいに、何もかもが無理になった。キョウコは『要介護になるなら、家に来てもらったらいいよ』と言い、自宅で療養できるように色々と手続きを踏んでくれた。そして幸いなことに、ちょうど死ねないぐらいに切り崩せる金はあった。銃器密売に関わったのは、一九九三年から二〇〇三年までの十年間。その間に得た金を失うことなく、鴨山は業界から足を洗った。洗ったというよりは、どんな手を使ってでも逃げる以外の選択肢がなくなったとも言える。その結果、今住んでいるのは単身用のワンルームで、二週間前にちょうど歩いていけないぐらいの距離にショッピングモールが開店した。反対側の新興住宅地ばかり気にしていて、古くからあるアパート群は目に入らなかったらしい。
この暮らしを生み出した最初の転機は、二〇〇二年の十一月。それまでは、退屈ではあるにせよ、まだ平和だった。あれは、ちょうど飲み仲間の北井にマカロフを納品した日で、同業者と思しき連中に入り込まれた。あのスカイラインに追われて一週間ぐらい身を潜めた後、川谷から連絡を受けて工作所へ向かうと、チンとショウヘイはもうおらず、代わりに『ゴマシオ』と呼ばれる日本人の男がいた。川谷とリンは詳細を話そうとせず、まるで最初からその面子でやっていたように、ゴマシオと神経質に談笑していた。いい方向に変わったのは、金回りが突然よくなったことと、西側の銃を扱うパイプが生まれたことだ。それまでは小銃ならカラシニコフ、拳銃ならトカレフかマカロフといった具合で、東側の銃がほとんどだった。しかし、ゴマシオが関わるようになってからは、コルトやスミスアンドウェッソンのような西側の銃も入ってくるようになった。そのスピード感はすさまじく、川谷は早々と、ゴマシオを実質的なリーダーとして受け入れていた。リンも『西の銃は独特だけど勉強になる』とか、妙に物分かりのいいことを言い出していた。
身を引くべきだ。そう決心したタイミングは悪くはなかったが、結局仕事も家族も両方を捨てて、逃げる羽目になった。妻の千佳は二歳年下で知り合ったころは遊び人だったが、健司が生まれてからは母親となった。裕福な生活が犯罪の上に成り立っているということは、薄々気づいていたとしても不思議ではないが、話題に上ることは一度もなかった。家の中では、鴨山は商社勤めで通していた。偽の名刺まで作り、川谷やリンのことは同僚として話していた。何を売っているかという部分だけ伏せれば、ある意味商社のようなものだったが、逮捕よりも怖いのは、実用目的で銃を必要とする顧客の方だった。警察に挙げられたなんてことが伝われば、口封じでどんな手を使ってくるか分からない。
結果的に自分が逃げ出したとき、健司は十歳で、成人まであと十年。困らないどころか余るぐらいの金を口座に残して、そこから二十年の間、できるだけ頭を低くして生きてきた。銃なんて密売どころか手にしたことすらないように。ひやりとしたのは、バーが一度だけSNSで『バズった』こと。そのきっかけになったカクテルを考案したキョウコは楽しんでいたが、こちらとしては生きた心地がしなかった。
キョウコは突拍子もないことをやらかすタイプだが、今自分が得ているもののほとんどは、彼女のお陰だ。例えば、訪問介護で自宅まで来てくれる看護師の白野は、キョウコが見つけてくれた。バーに一度来たことがあるらしいが、ちょうどそれがSNSで変に有名になった時期で、客としては全く覚えておらず、初めて家に来てもらったときは気まずい思いをした。そんな白野は、挨拶だけで相手の全てを読み取れるような聡明さがあって、話していて全く飽きることがない。年齢はマナー違反になるから聞けないが、おそらく三十代半ば。頭の回転が速く、こちらの言いたいことを先回りしてくれるし、心すら読めるようだ。
白野に家族のことを話したのは、一カ月ほど前の話だった。後悔しているという風に話したことは、キョウコに対してすらなかった。しかし、白野が聞き役に回っている間は、今までに自分が思いつきもしなかった言葉が、自然と口をついて出ていた。例えば『顔を見たい』とか『許されるわけがない』とか。
千佳と健司が今でも同じ姓を名乗っていることが分かったのは、白野にその話をした一週間後のことだった。そして初めて、二十年が経ったということに気づいた。次に気にかかったのは、当時、絶対に家族と連絡を取ってはいけないと覚悟を決めたが、その必要は今でもあるのかということだった。その辺の下りは、白野には詳細をぼかして『家族に火の粉をかけたくなかった』と説明した。それに対する白野の答えは、単純だった。
『二十年経ってたら、関係者はもういないんじゃないですか?』
その言葉がきっかけになって、白野から連絡を取ってもらったのが、二週間前。
そして先週、千佳と健司は家にやってきた。土壇場になって自分の姿を見せたくないと考えもしたが、家族を捨てた立場として、今のこの姿はある意味相応しいと思い直して、そのまま対面した。
『仕事で危ない連中と関わり、家族に危害を加えられる可能性があった』
それ自体に、嘘はなかった。千佳と健司が知らないのは、父親自身が『危ない連中』のひとりだったということだけ。
「また来るって言ってたし、楽しみが増えましたね」
横でテレビのチャンネルを操作していた白野が、洗剤のコマーシャルを見ながら言った。椅子に張り付いたまま動けない鴨山は、うなずいた。
「ほんまに、どない感謝してええんか。もう、分からんわ」
結局、誰が抜けられて、誰がツケを払ったのか。それすらはっきりとは知らない。今でも連絡が取れるのは、川谷ぐらいだ。鴨山が思い出していると、白野がテレビのリモコンを持ったまま振り向いて、言った。
「何チャンがいいです?」
「ごめん、そのままで」
鴨山がそう言って白野がリモコンをテーブルに置いたとき、玄関ドアが金属音と共に揺れた。やや大きめの足音が去っていき、白野が立ち上がりながら言った。
「ポストですね、持ってきましょうか」
鴨山は手で制止しようとしたが、白野はすでに歩き出しており、ポストの裏蓋を開けて封筒を取り出すと、小走りで戻ってきてテーブルに置いた。
「なんでしょうね」
「直接、玄関に封筒か。不吉やのー」
鴨山が冗談めかして笑うと、白野は苦笑いで応じながら、顔を覗き込んだ。
「思い当たる節、あるんですか?」
「あるよ」
鴨山の短い答えで封筒にまつわる質問は終わり、白野はインスリンの注射を終えて時計を見ながら言った。
「では、今日のところはこれで失礼します」
「ありがと、またな」