Firehawks
彩菜は駅の入口に命を救われたように、小さく手を振って走り出した。エスカレーターに足をかけたとき、後ろから三吉が言った。
「メールするわなー」
そんなこと、来たら分かるんだからいちいち言わなくていいよ。彩菜は切符を買って改札まで無言で通り抜けると、ホームで休憩所のガラス窓に映る自分の顔を見ながら、両頬から涙を払い落とした。
南野が運転するエスクードは、中々家に立ち寄ろうとしない。溝口は尾行を始めて数時間が経っていることに気づき、小さくため息をついた。南野は警察官だ。北井に接触したといってもそれは勤務中の話で、一旦勤務を終えれば非番の警察官に戻る。今は郊外の幹線道路を抜けて、工場地帯を走っている。趣味は登山とカメラで、登山は一度誘われたことがあった。だとしたら、写真を撮りにきたのかもしれない。溝口は記憶する限り、機動銃殺隊に入ってから仕事終わりに趣味の時間を取ったことがなかった。もちろん休日は存在するが、仕事のことを頭から追いやる時間はないし、眠っていても夢に出るから、結局二十四時間働いているのと同じだ。
溝口は波止場に向かって走っていくエスクードから離れて、路肩にアコードを寄せながらライトを消すと、排気ガスが上らないようエンジンを止めてから、静かになった車内で体を低くした。波止場の先端が夜景撮影のスポットになっているらしく、幸いエスクードの後ろ姿はかなり遠くまで追える。ブレーキランプを光らせないように足をずらせながら、溝口は限界まで暗くした携帯電話のディスプレイを眺めた。鎌池からの連絡によると、グロック19が納品されたのは午後九時、つまり二時間前。取りに来たのは新入りの女で、佐藤。いつものスーツ姿ではなく、ブルージーンズにベージュのコートを組み合わせた私服姿だったらしい。この後用事があるのかと聞いてもはぐらかされ、その動向は分からないままだったという。だとしたら南野ではなく、佐藤を追いかけるべきだ。
それに、まさか丸腰で送り出されるとは思っていなかった。機動銃殺隊と呼ばれるのは、理由がある。それは頭に拳銃を突き付けて、躊躇なく引き金を引けるからだ。その道具がなければ力を発揮しきれないし、尾行するのが自分である意味すらない。
駐車車両に紛れて数十分が経ったとき、視界の奥で影が動いた。黒色のローレルが左折してきたということが分かったのは、その車体がナトリウム灯を跳ね返してオレンジ色に光ったときだった。ヘッドライトを点けずに、徐行している。溝口は少しだけ体を起こして、ナンバーを頭に留めた。波止場に向かう道の手前で一時停止すると、ローレルはゆっくりと右にハンドルを切って波止場への道に入っていった。無灯火でこんな真っ暗な道に入るとは。点け忘れなんてことは考えられない。溝口は深川の携帯電話を鳴らし、通話が始まるなり言った。
「無灯火のローレルがうろついてます」
ナンバーを伝えて電話を切り、波止場の方へ顔を向けた。三脚を立てたカメラマンが数人いて、南野は端に立っている。距離が百メートルほど離れているから、影絵のようだ。その光景を割るようにローレルのブレーキランプが赤く光り、エスクードの後ろに停まった。その様子を見ながら、溝口は五六式の男が分離帯に押し込まれた『事故』のことを思い出していた。鎌池はあれが『警察にマークされていない』ことを証明するためのテストで、鴨山と自分は合格したと言っていた。顔合わせができた以上、それは正しいのだろう。しかし、もしそれだけじゃなくて、まだ組織の『テスト』が続いているとしたら。直近の顧客は、五六式の男だけじゃない。北井春樹も同じだ。同じように監視されていたとしたら、あの組織は南野の顔も知っているはずだ。溝口は言った。
「南野と接触します。許可願います」
「待て」
深川がきっぱりと言い、溝口はすでにキーを掴んでいた手を離した。波止場に目を凝らせていると、ローレルの運転席から降りてきた女が南野の隣に立ち、何かを話しかけ始めた。彼女と待ち合わせしたようには、到底見えない。しかし、カップルを避けるように先客が引き上げ始めた。
「南野とローレルの女だけになります」
片づけを終えたテリオスが波止場の交差点を抜けていき、パジェロも出ようとしている。周りに誰もいなくなってしまったら。パジェロがヘッドライトを点けて転回し、女の後ろ姿を真っ白に照らした。鞄を肩から掛けた女の服が、溝口の頭に警告信号を鳴らした。ブルージーンズにベージュのコート。
「佐藤です!」
そう言った溝口がキーに再び手をかけたとき、パジェロが波止場の交差点を曲がっていき、影絵に戻った女の手が動いた。右手に握られた拳銃の銃口が南野の頭を向き、糸を切られたように南野の体がその場に崩れ落ちた。ローレルのトランクを開けて南野を放り込んだ女は、運転席に戻るとローレルを勢いよく転回させた。溝口はキーを折りそうな力で握りしめながら、ヘッドライトをハイビームにして波止場から出て行くローレルを見送った。南野が何者かは、調べればすぐに分かるだろう。溝口は言った。
「南野が殺られました。死体はトランクの中です」
「引き上げろ。追うなよ」
深川はそう言って、電話を切った。溝口はアコードのキーを捻り、エンジンをかけた。シートベルトを締めたとき、深川が真っ先に南野を尾行させた理由を理解した。鎌池を助け出すタイミングを見計らうためだ。倉庫に戻り、アコードから降りた溝口は深川に言った。
「一瞬でした」
深川は、テーブルの上に置いた地図とその上に重ねられた写真に目を向けた。
「お開きや」
予測していたことだったが、これで終わりだ。溝口はうなずいた。南野の身元が警察官だと分かるまで、さほど時間はかからない。
最優先で鎌池を組織から引き抜く必要がある。
二〇二三年 八月 ― 現在 ―
電話を無視したわけじゃない。あんな写真が届けられた後だから、警戒するのは当たり前だ。鴨山は時計を気にしながら、携帯電話の向こうで淡々と話す川谷の言葉を聞いていた。あのコンバットコマンダーが、事件で使われた。ニュースで見たと言っていたが、最後にどこにあったかなんて聞かれても、当たり前のように自分が見た最後しか知らない。何故か時間がかかっていたのは覚えている。確かスライドにヒビがあるから、新しいものを取り寄せた。ゴマシオが表面仕上げをやり直したり、とにかく手間がかかっていた。
「それだけで電話はせんやろ。正直に言えや」
鴨山が言うと、川谷は会話の間と呼ぶには長すぎる時間を空けてから、呟くように言った。
「田中や」
外事課銃器犯罪対策班。関わるとしたら、最悪な連中。悪夢と言ってもいい。常に頭の片隅で場所を取っていたにしても、その名前を音で聞くのは久々だった。
「辞めとるよな? もう六十半ばちゃうの」
「それは、もちろんそうなんですけどね」