Firehawks
鴨山は岩村の組織のことを『大口』と呼ぶ。単に唯一の大口顧客だからだが、その単語を聞くと自然に背筋が伸びた。鎌池は無人のブランコをしばらく見つめた後、呟くように言った。
「例のグロックがある」
「それでいい、用意しといてくれ」
鴨山は電話を切った。『大口』に関わり始めて以来、全てが慌ただしい。深川と溝口は次に全員が集まったタイミングで潰すつもりだ。そしてそのときは、おそらくすぐにやってくる。鎌池は深川に電話をかけて、通話が始まるなり言った。
「急ぎで納品です」
「何挺や?」
「一挺です。サプレッサーも」
「すぐに使う気やな、了解」
深川との通話が終わり、鎌池は指に落ちてきた灰を払いのけた。煙草ですら急げと言っている。
本丸に辿り着いたのは、去年の暮れ。課長が摘発件数の目標を全員に周知している間、深川は鎌池からの電話で離席していた。課に身を捧げている東山と南野が欠席しているのは珍しいが、今の課長は数字を音読するだけの機械みたいな存在だから、田中との上下関係は逆転している。
携帯電話を片手に持ったまま誰もいない廊下に立ち、深川は考えた。数字を退屈そうに聞いている田中を、今ここに呼び出すべきだ。本丸からの依頼は、サプレッサーがついた拳銃。一挺で、しかも急ぎ。在庫を確保するとか、そういう生ぬるい話ではない。今にも使おうとしているときの動きだ。正月明け、田中は新年のあいさつをする代わりに『期限切れや』と言った。確かに、ここ数週間動きはなかった。年内という期限は過ぎたが、相手に対して年内に尻尾を出せとは言えない世界だ。
色々と、常識破りのことが起きている。犯罪者に常識がないのは分かっているが、それでもある程度の行動様式があるはずだ。最初に逸脱したのは、北井春樹。この間隔の短さで二挺目を買うなんて不用心すぎるし、そういうことをして捕まるのは大抵家族を持たない独身の連中だ。
鎌池に『納品を引き延ばせ』と言ったから、コンバットコマンダーはまだ工作所にある。このタイミングで民間人が摘発されたら、岩村が率いる組織は今度こそ姿を消すだろう。 田中の携帯電話に発信しようとしたとき、目の前を南野が通り過ぎたことに気づいて、深川は言った。
「おい、会議飛ばしてええんか?」
振り返った南野は小刻みにうなずいた。
「今は無理です」
そのままトイレに入っていくのを見て、深川は携帯電話のフラップを閉じると、ポケットにしまいこんだ。壁に据え付けられた消火器に上着をかけるとネクタイを緩め、トイレの扉を引いて中へ入った。洗面台で顔を洗っている南野の後ろに立ち、鏡に映る深川に気づいた南野が振り返るのと同時に、言った。
「ちょっと話せるか?」
南野は返事の代わりに隙間をすり抜けようとしたが、深川は首を捕まえて元の場所に引きずり、そのまま持ち上げた。腕力ではどうにもならない体格差に負けて、南野はほとんど足が浮くぐらいに持ち上げられた後、鏡に叩きつけられた。
「行きます! 会議に参加します、すみません!」
南野が慌てて言い、深川は体を離した。洗面台と深川に挟まれて、南野は降伏したように両手を顔の前に掲げた。
「会議なんか、どうでもええわ。お前、最近どうしてた?」
深川はしかめ面のまま言った。ずっと、気にかかっていたこと。去年の時点でハンドル捌きが危なかった。何かが起きているのは、頭のどこかで分かりきっていた。
「どうって……、元気にしてました」
「お前の体調はどうでもええねん、何をしてた?」
深川は、南野が答えるのを待った。ヒビが入った鏡の破片が音を立てて洗面台の上に散ったとき、それでも答えない南野の代わりに深川は言った。
「お前、北井春樹と接触してないか?」
額から流れてきた汗が目に入り、南野は瞬きを繰り返した。深川は体を少しだけ離した。それで考える余裕ができたように、南野は忘れていたように息を深く吸い込むと、細々と吐き出した。
「東山先輩は、エスにすると……」
「ドアホ」
深川はトイレの扉に視線を向けた。出口の形をしたものに目を向けていないと、このまま東山をここに呼び出して、取り返しのつかない怪我を負わせてしまいそうだ。エス、内通者、タレコミ屋。色んな呼び方があるが、今回の相手はカタギの会社員だ。そしておそらく、東山は南野にも嘘をついている。北井をエスに仕立てるつもりなんて、東山には全くないだろう。単に目先の数字が欲しいだけだ。取引を成立させた鴨山と北井の両方が捕まるだけで、後には何も残らなくなる。
「いつからや?」
「去年、トンカツ屋まで迎えに行ったときです」
「何が迎えや、おれが頼んだみたいに言うな。倉庫まで来たんは、顧客リストを見るためか」
北井が二挺目を急ぐ理由が分かった。南野が懐に入り込み、操っているからだ。深川は拳を固めた。それが自分に飛んでくると予測した南野は思わず目を細めたが、深川は攻撃する意図がないことを示すために、首を横に振った。南野は折れ曲がったネクタイを元の位置に修正すると、言った。
「受け渡しを押さえます。今は、現物が仕上がるのを待ってる状態です」
深川は、南野の目を見たままうなずいた。本丸の尻尾を捕まえるまでは、リスクだけ高い小物は相手にするな。鎌池にはそう言って、北井への納品を引き延ばしてきた。つまり、意図せず邪魔をしていたことになるが、結果的に正解だった。
「鎌池が足を抜いてからにしろ。タイミングはまた教える」
深川はそう言って、南野が出て行けるように体を一歩引いた。田中からすれば、今は昇格しやすい状況だ。そもそも、数字だけを読み上げるビンゴゲームの司会者みたいな課長は、道を譲りたがっている。だからこそ、今ここで目先の獲物を逃したくないのだろう。検挙率が去年よりも悪くなれば、監察官が入り込む隙を作ることになる。しかし、民間人を巻き込んだらロクなことにならない。まだ南野が立っていることに気づいて、深川は言った。
「なんか、言いたいことあるか?」
南野は小さく首を横に振ったが、ふと思いついたように言った。
「自分も、危ない橋を渡ってるのは自覚してます」
「橋の真ん中で言うなドアホ」
深川が言うと、南野は自分を嘲笑するように口元を緩めた。
「去年、バイパスで事故があったん覚えてるか? ダンプカーが左にふらついて、乗用車を分離帯に押し飛ばした」
深川が言うと、南野はうなずいた。
「事故の相手が見つかってないやつですよね」
「あの分離帯に飛ばされたんは、五六式を買った奴や。即死やった」
それが死刑宣告のように、南野の顔が強張った。深川は外の足音に耳を澄ませた。まだ会議は終わっていない。
「写真を見たけどな、ドアが巻き込まれて反対側にめくれあがってた。ダンプカー側に細工がされてた可能性が高い」
「当てて引きずるためですか」
南野が抑えた声で言い、深川はうなずいた。
「その通りや。客が警察にマークされてないか試したんやろ。実際、宮原が尾行してたけど、気づかれんで済んだみたいやな。ちなみに、ダンプカーは盗難車ですらない。ナンバーも存在せん番号やった。こういう手の込んだことをする連中が、目の前にいてる。相手が誰でも、容赦せんぞ」
「気をつけます」