Firehawks
三
二〇二三年 八月 ― 現在 ―
一軒家という名の城だけが残った。最終の役職は外事課の課長代理で、二〇〇三年の三月に警察組織から身を引いた。それ以来、田中竜也はかつて『班長』と呼ばれていたころの記憶を重ねることは、ほとんどなかった。四十六歳という中途半端な年齢で警備会社へ再就職できたのは、結果的には運が良かったと言える。ちょうど、娘の加代子が就職した年でもあった。それから五年後、加代子は結婚した。三人が住んでいた家からひとり減り、妻の美代と二人になった。警察官だった時代と比べると勤務体系は冗談のように安定していて、毎日決まった時間に帰ってくる姿を見て、美代は苦笑していた。
『これが普通なんですね』
ある日そう言われて、本当にその通りだと実感した。警察官時代の狂騒が懐かしいとも、思わなかった。決して後味のいい終わり方ではなかったし、事情が許せば続けていただろう。結果的に、自分で線を引いて立ち去るしかなかった。
今年で六十五歳。美代は一歳年下だが、入退院を繰り返していてほとんど家にはいない。だから、実質ひとりだ。そうなると、元々が無趣味だった人間である以上、ほとんどの話し相手は『記憶』になる。
銃器犯罪対策班。東山や南野のように普通の捜査を担当する『顔が見える警察官』と、裏でありとあらゆる工作をやってのける別働の『機動銃殺隊』。後者の要件は単純で、公共と市民の安全を守るために、私生活を完全に捨てられるかということ。四人が集まったのは、ある意味奇跡だった。深川、溝口、鎌池、宮原の四人組。結束が固く、外からは容易に入り込めない。その代わり、突然眼前に差し出してくる成果は大きかった。例えば溝口が『カウンターの三番目にいつも座ってる、ベレー帽の男です』と言えば、捕まえるべき相手は本当にカウンターの三番目に座っているベレー帽の男だったし、深川が『今日か明日辺り現れます』と言えば、相手は必ず二日以内に姿を見せた。その秘訣は皆が知りたがった。しかしそれは、猟犬に獲物を見つけるコツを聞いても、答えを聞き出せる日が来ないのと同じ。当然と言えば当然だ。そもそも、警察官と同じ言語を話していないのだから。機動銃殺隊と呼ばれていたのは、その行動様式がほとんど処刑人に近い性質を持っていたから。常に張りつめていて、瞬きひとつせずに引き金を引く連中だった。
誇らしくもあったが、最悪なタイミングで問題が起きた。いざリードを引っ張ろうとしたときに、言うことを聞かなかったのだ。それが二〇〇二年の冬で、監察官がいよいよ動くかという瀬戸際だった。当時、機動銃殺隊に注ぎこまれていた警備費は相場の四倍。尾行用の車を何台も持ち、装備や通信機器も常に最新だった。投資の成果がどのように現れているか、数字だけを見てくれればいいが、監察官はそんなに甘くはない。まだ職務に関係があればいいが、私費に流用していることが分かれば、その場でゲームセット。例えばこの家にも、機動銃殺隊の予算の一部が使われている。とにかく当時は綱渡りが当たり前になっていて、私生活を賭けたギャンブルに勝ち続けているような感覚だった。
田中は壁の時計を見上げた。夜の八時。こんな時間から何かを始めるということは滅多にないが、今日は例外だ。ニュース番組の音量を下げると、田中は携帯電話を引き寄せた。警察を辞めたときに一番心残りだったのは、その時点で機動銃殺隊が何をどこまで追求していたか調べられなかったことだ。
鎌池が入り込んだ銃器密売の組織に、深川が報告してきた『殺しのプロ』の話。そして、ガンマニアでコレクターの北井春樹。自分が知る限り、登場人物は限られている。だから、辞めるときに最も簡単な相手に鎖を巻いた。川谷の携帯電話を鳴らすと、すぐに通話が始まった。番号を変えたらどうなるか分かるな。二十年前にそう言ったのは、川谷が人生を取り返したがっていたからだ。常に首に鎖が巻かれているという条件がついていても、魅力的に映ったらしい。
痺れを切らせたように、電話の向こうで声がした。
「もしもし」
川谷の声。どれだけ時間が経っても、忘れることはない。どんな人生を送っているかは、住所から乗っている車まで知っている。ただその声のどこかには、低いところへ流れるままに生きていた若いころの面影が混ざっている。田中が何も言わないでいると、川谷は言った。
「切るぞ」
「切るな、聞け」
田中が言うと、相手もその声で誰と話しているか察したらしく、その空気は二十年前の関係を再現するように、一気に張りつめた。
「どうしたんすか」
「久しぶりやな。なんで電話したと思う?」
聞けと言っておいて、自分からは何も言わない。こういう人間と話すときは、いつもそのようにしていた。田中は現役時代を思い返しながら、続けた。
「心当たりないか?」
「あります……」
川谷がそう言ったとき、ドアが開く音と足音が混ざり、部屋を変えたことが分かった。
「死人は出てないみたいです」
川谷の言葉に、田中は笑った。当たり前だ。もし誰かが死んでいれば、こんな風に回りくどい会話を挟んだりしない。
「お前らの商品で間違いないな?」
銃撃で使われたコルトコンバットコマンダーは、川谷が最後に扱った拳銃だ。軽く改造されているだけで、見た目の特徴はほとんどない。グリップのメダリオン部分が真っ黒に塗られている以外は。田中が返答を待ちかねて再度口を開きかけたとき、川谷は言った。
「鴨山に連絡を取ろうと思ってます。最後はあいつの手元にあったはずなんで」
「逐一報告しろ」
そうしなければどうなるか、そんなことをいちいち語って聞かせるのは野暮というものだ。電話を一方的に切り、洗面所に直行して顔を洗うと、田中は鏡に映った自分の顔をまっすぐ見て、立ち尽くした。年齢を重ねて、確実に消えたと思っていた面影。それがたった数分の通話で、立ち姿すら変えてしまったようだった。アキレス腱辞典と呼ばれていたのは、人のやることを全て受け入れるような柔らかな表情を作りながら、立ち入る隙を作らなかったからだ。田中は七福神のような笑顔を作り、すぐ元に戻した。長い間忘れていた、様々な番号。繋がらないものもあれば、川谷のようにまだ生きているものもある。
この二十年間、川谷は炭鉱で危険を知らせるカナリアと同じ役割を果たしてきた。機動銃殺隊が裏の世界に残してきたもの。それが動くとしたら川谷か鴨山が真っ先に狙われる。だから、連絡を取れるようにしておいて正解だった。田中は居間に戻ると、安楽椅子に腰かけてテレビの音量を上げた。ずっと取っておいた保険を使うときがきた。
大地がヘッドホンをつけてゲームを始め、美菜子が仕事用のパソコンで明日の準備をしながら眠りそうになっている。日付が変わる直前の、いつもの光景。川谷は携帯電話を握りしめながら、歯を食いしばった。鴨山が電話に出ない。非常識な話をする前提だから、なるべく追い打ちをかけないように常識的なペースでしか発信していない。三時間で二回は、常識の範囲に入るだろう。昔なら『鬼電』していただろうが、もう若くはないし、そんなノリが通用する事態ではない。