EXIT
おれは脂を吸ってべとつくメニュー表を取りあげ、捲った。
「でも味はうまいんだよ。腹減ってる?」
「すこし」
「食べたいのある? 適当に注文していい?」
「うん。善くんのおすすめで」
「アレルギーとか嫌いなものは?」
「とくには」
「内蔵系も平気?」
「うん」
水を持ってきた店員に、ロースやハラミ、牛タンといった定番の肉とホルモン数種、キノコのホイル焼きなどを注文する。宥人は眼鏡をはずして紙ナプキンでレンズを拭っている。
「じゃあ、お疲れさまです」
「はい、お疲れさま」
おれはビール、宥人はオレンジジュースで乾杯した。直後はどちらも話さず、グラスに口をつけ、離した。数秒間の沈黙。おれは喉に絡んだなにかを飲み込んで、短く咳をした。
「ミヤちゃんって……」
「え?」
「みんなが、善くんのこと、ミヤちゃんって呼んでる」
「ああ、名字が宮下なんで」
そういえば、宥人にははじめから下の名前を教えていた。会話の流れとはいえ、下の名前で呼ばれることのほうが珍しかった。
「あの、煙草いいすか」
「あ、どうぞ」
近頃は禁煙の店も増えたが、ここはいまだに各席に灰皿を置いている。長時間いると目が痛むほどの煙で常に覆われていて、今更煙草の煙など気にすることもない。
煙草に火をつけ、煙を灰に入れる。空いた手でシャツのボタンをひとつはずす。仕事が終わって一杯やるときのルーティーン。いつもとちがうのは連れがいることだった。
「煙、平気?」
こういう店のいいところは注文した品がはこばれてくるまでの時間が短いことだ。第一陣がくると、おれはトングを手に肉を焼きはじめた。
「煙草の? 焼肉の?」
「両方」
「どっちもだいじょうぶ」
宥人は座敷に正座して背すじをきれいに伸ばしている。無理をしている様子はなく、これが慣れた姿勢のようだった。親の教育が行き届いているのだろう。
「おいしい」
ロース肉をひと切れ口にはこんで、宥人は目を見開いた。
「でしょ」
「これが680円って、けっこう驚くね」
「そうなんだよ。高級な店にも負けてないよね」
「うんうん。このタレもおいしいねえ。自家製かなあ」
宥人は何度も頷きながら据え付けられたタレの容器や肉の皿を手に取ったりしている。ふだんの様子から、潔癖なタイプかと思っていたが、案外庶民的なのかもしれなかった。
「宥人さんってさあ」
白米とロース肉をいっしょに頬張りながら、おれはいった。
「女もいけるんだっけ」
トングで肉をひっくり返していた宥人の手が一瞬止まる。
「女性と付きあったことはないかな。なんで?」
「いや、今日は楽しそうだったから」
「楽しそうだったかな」
「楽しそうだったよ」
宥人がすこし笑う。肉の脂が滴り、網の下の炭に落ちる。白い煙が立ち上り、宥人の表情を朧にさせていた。
「ママたちがやさしいから」
よくわからない返答だった。おれも肉を返しながら、いった。
「店に気遣ってお金落としにきてくれるなら、無理しないでいいよ。上にも行ってるんでしょ」
「上には……」
煙の向こうで宥人が口籠もる。
「上には、なに」
「べつに……そんなに派手に遊んでるわけじゃないし、遅い時間まではいないから」
「ふうん」
職業柄、誤魔化すのは得意なのだろう。おれはすこし加虐的な気分になった。
「昨日、上の奴とたまたま会って、宥人さんが最近きてくれないってぼやいてたからさ」
煙ごしに宥人がおれの表情を窺ってくる。おれは肉の並んだ網に視線を落としたまま、続けた。
「ほかに好きな奴でもできたのかなっていってたよ」
これはかなり盛った表現だった。宥人は一瞬狼狽を見せたが、すぐに笑顔をつくった。
「だいじょうぶだよ、善くんじゃないから」
気のせいか、わずかに棘を感じる口調だった。
「……あ、そう。だったらいいけど」
再び沈黙が流れる。ビールをひと口飲んで、おれはいった。
「宥人さんって、ああいうのがタイプなの」
「マオリ? べつにタイプってわけじゃないよ」
宥人は自嘲気味に笑った。
「ただ……ぼくらの場合、選択肢が限られるっていうか」
意味がわからないといった顔をしているのがわかったのだろう。宥人は頬杖をついていった。
「つまり、タイプとかはとくにないってこと。いろいろあるんだよ、善くんにはわからないようなことが」
店員がキノコのホイル焼きを持ってきた。おれの側にはスペースがなかったためか、宥人の目の前に皿を置く。いつもながら愛想のない店員だ。とくに求めているわけでもなかったが。
「おれ、焼きますよ」
「えっ」
なぜか驚いた顔でこちらを見ている宥人のほうに手を差し出す。
「それ。焼くの、ちょっとコツいるんで」
「ああ……」
ホイル焼きの皿を受け取り、アルミホイルごと網の上に載せる。ホイルをすこし開けて、タン塩の皿に残った葱をキノコの上に落とし、醤油をかけて再びホイルで蓋をする。
「貧乏くさいよね」
おれの手元を興味深げに見つめている宥人の視線に気づき、苦笑いして見せる。
「でも、これがうまいんだよ」
「いろいろ知っててすごいね」
「葱とかタレとか残すの、なんか嫌で」
我ながら貧乏くさい癖だと思う。恥を誤魔化すようにまた煙草に火をつける。
「行儀がいいってことじゃない。きっとお母さんの躾がきちんとしていたんだね」
皮肉にも、おれとおなじことを考えたらしい。思わず笑ってしまった。
「全然。親は小さい頃離婚して、母親も水商売だったし」
宥人は黙っている。あえて謝ったり取り繕ったりしないところは、さすがにふだん弱者の味方として訴えを聞いている立場なだけのことはある。
「善くん、地元どこ?」
「九州。福岡のはずれのほう」
ホイルのなかで蒸し焼きになったキノコと醤油の香ばしい香りが漂ってきた。
「高校中退して、16でこっちきてからは、1回も帰ってないけど」
「ずっとひとり暮らし?」
「まあ、そう」
「えらいね。ぼくなんか22まで実家に居座ったよ」
「今はマンション?」
「さすがにこの年齢だしね」
「そういえば、宥人さん、いくつなんだっけ」
「36だよ」
「36!」
思わず声を上げた。
「二十代だと思ってた」
客に対するおべっかというわけではなく、正直な驚きだった。宥人が苦笑いする。
「貫禄がねえ、なかなかねえ」
困ったような顔も少年っぽさを感じさせる。若く見られることを誇らしく思う人間もいるだろうが、宥人のような商売をしていると、むしろ依頼主に不安や不信を与えることになるのかもしれない。
「善くんは?」
「おれは今年26」
「ちょうど10ちがうのか」
「そうですね。宥人さん、36には全然見えないけど」
おれはまだ驚きながら、網の上のホイルを箸の先で開いた。
「キノコ、もういいよ」
「うわあ、いい匂いだねえ」
おれが箸でキノコをつかむと、宥人はうれしそうに両手で自分の皿を差し出した。そんなしぐさもいかにも無邪気で、笑ってしまいそうになる。
「うまいっしょ」
「ちょっと待って。まだ食べてない」
ホイルに包まれていたために熱を吸収したシメジやエノキに息を吹きかけてすこし冷ますと、箸で摘まんで口に入れる。大仰すぎると思えるほど目を見開いて、大きく頷く。