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「おいしい」
 おれもなんとなく得意な気分で頷き返す。さっきまでの剣呑な空気が消え、和やかな食事にもどっていた。おれははじめて東京で自分の金で食べた焼肉の味を思い出していた。何百、何千、何万回と食事をしても、あの味を忘れることはないだろう。
「いいなあ、これ。家でもつくれないかな」
「宥人さん、料理すんの」
「趣味程度にね……ああ、ごめん。なんの話だっけ」
 宥人が唐突に顔を上げる。
「なにが?」
 宥人の表情に再び戸惑いが混じる。眉間に皺を寄せて笑顔をつくる。
「話したいことあって誘ったんじゃないかと思ったんだけど……ちがった?」
「ああ、いや……」
 おれもキノコを口にはこびながら、首を横に振った。
「なんか……もういいかな」
「なに? 気になるけど」
「べつに、たいしたことじゃないっていうか……」
 おれは躊躇してしばらく黙っていたが、やはり話すことに決めた。
「テレビ、おれも見たんだけど」
「ああ……」
 宥人は恥ずかしそうだった。メディア出演をことさらに強調して自尊心を高めるタイプの人間でないことはわかっている。
「動画、探してみようと思って宥人さんの名前で検索してさ」
「え、そんなことしたの」
 おれは箸を置いてスマホを操作した。菊地宥人の名で検索すると、いくつものニュース記事とともにSNSのアカウントが表示された。
「ちょっと待って。本気で恥ずかしいんだけど」
 宥人は本名でSNSのアカウントを公開していた。プロフィールの写真も自身のものだ。所属する弁護士事務所の宣伝用の写真らしく、バッヂをつけて正面を向いたオーソドックスな証明写真だった。
 おれはSNSのアカウントを持っていないし、閲覧することもほとんどない。宥人のツイッターやインスタグラムのフォロワーがそれぞれ3万を越えていることには驚いたが、それがなにを意味するのかにまでは気が回らなかった。
 昨日の夜、店が終わってから、自宅アパートでひとりスマホをいじっていた。宥人のツイッターやインスタグラムにはエリート弁護士の優雅な生活をこれ見よがしに自慢するような投稿は皆無だった。タイムラインは裁判の状況や原告の主張を伝えるメッセージで埋め尽くされ、ときには自分自身の言葉として文字や動画で社会の不平等や権力の偏り、政治の腐敗について意見を述べていた。なかにはかなり厳しい論調も多く、ふだん店で見る宥人の顔とはまったくちがう顔がそこにあった。
「なんかイメージちがっててびっくりした」
 宥人は無言で微笑んだだけだった。こういうとき、なにもいわずに穏やかな表情を見せるというのは、並の精神力ではできないだろう。宥人は常に冷静で、知的だった。
「いい意味でだよ」
 おれは親指の腹でスマホの画面をスクロールした。画面上で、宥人が性的少数者の権利を主張している。動画は一時停止になっていて、宥人は中途半端に口を開いた状態で停まっていた。
「こういうのって、おれよくわかんないけど、宥人さん、有名なんだ」
「有名ってわけじゃないよ。変なのが湧いてくるだけで」
 さらにスクロールすると、宥人の主張に対する無数のコメントが表示される。弁護士として弱者に寄り添う姿勢に賛同するものもあったが、反対に、差別的な意見や悪辣な誹謗中傷も目立った。思わず顔を背けたくなるような下品な言葉や、宥人の容姿を揶揄するような表現も見つけられた。小さな画面のなかの世界で、宥人が差別主義者たちと真っ向から対決しているのが、デジタルに明るくないおれにもよくわかった。
「もういいって。恥ずかしいから」
「テレビでもそうだったけど、なんていうか……堂々としてて、すごいよね」
「べつにすごくはないでしょ」
 宥人が顔を赤らめる。本気で照れているようだった。おれは真顔で続けた。
「謙遜しなくてもいいじゃん」
「謙遜とかじゃなくて……もう勘弁してほしいな」
 宥人が両手で顔を覆う。おれはすこし笑って白菜キムチをつまんだ。
 昨日の夜。宥人の名前で検索して出てきた記事や映像を見ているうちに、ほとんど徹夜していた。難しい用語は理解できないが、宥人が対峙しているジェンダーや性差別、格差といった社会問題が、自分にまったく無関係だとは思えなかった。実際、安くない税金を支払って、20代の若さで水商売以外の職歴を持たないおれの状況にも、社会の構造が深く影響しているはずだ。昨日まではそんな意識を持ったことは一度もなかった。
 宥人はできる限りやさしい言葉を選択しながら、幅広い世代にわかりやすいよう工夫し、また他者を傷つけないよう配慮しながら慎重に、しかし強い印象を残すほど大胆に発信し続けていた。
「おれ、弁護士の仕事、誤解してたかも」
「いや、これは弁護士の仕事じゃないから」
 照れ隠しなのか、拗ねたようにいって、宥人が肉を頬張る。体型のわりによく食べている。
「最初からこういう感じではなかったんだけど、いろいろ書いているうちに、やたら絡まれるようになって、いつの間にか……」
 菊地宥人弁護士はSNSを活用して情報を発信し、いい意味でも悪い意味でも目立つ存在だった。性的少数者や外国人、性犯罪被害者の味方として、彼らのために慈善事業やデモに積極的に参加していた。旧態依然とした保守派には煙たがられているようだったが、書籍も何冊か出版し、テレビにも出演するほど知名度は高かった。おれやホステスたちが知らなかったのは、単純に接点がないことやそもそも社会の問題に関心が薄いせいだろう。
「そんないいもんじゃないよ。誹謗中傷もひどいし、殺害予告なんかもあるし」
「殺害予告?」
「あ、実害はないから平気」
 宥人が慌てて手を広げて見せる。
「ネットで殺すだのなんだのいう奴に、本気でやり遂げる勇気あるわけないしね」
「でも顔も本名もばれてたらあぶないんじゃないの」
「平気だよ。自分の身は自分で守れる」
 宥人のアカウントには自身の本名と顔写真が晒されているが、暴力的な言葉を書き込むアカウントのほとんどはハンドルネームだった。ひとりで戦っている人間に対して、不特定多数の連中が一斉に叩く構図は、不快としか形容できなかった。
 宥人が投稿するたびに、何百というコメントがつく。すべてではないが、ひとつひとつに宥人がしっかり返信していた。宥人の容姿を嘲るような悪意の塊や、あえて論点を逸らした主張にさえも、堂々と反駁している。テレビに出演していたときのように、その毅然とした態度と豊富な知識、語彙をもって、どの場合も圧倒的に優勢を保っていた。
「この前の記者も?」
「あれはまたべつ」
 宥人は話題を避けるように手を挙げて店員に合図し、空いたグラスを下げさせた。
「不安じゃねえの?」
「まあ、平和とはいえないけど、ちゃんとわかっててやってることだから」
 おれの問いに、宥人は当然というように答えた。
「自分とちがうって理由で他人を差別するようなアホをいい負かすの、趣味なんだ」
 箸を持ったまま、宥人がにっと笑う。思いがけない表情と言葉に、おれは呆気にとられて笑ってしまった。どうやら見た目よりもずっと強い人間らしい。やはりこれまでの印象を変える必要がありそうだ。
「なんか、かっこいいな」
「え?」
 宥人がまた照れて目を伏せる。
作品名:EXIT 作家名:新尾林月