EXIT
黒服のおれを差し置いて、香里がさっさと奥の席に案内する。話し声を聞いてか、結南や美咲も待機室から出てきた。ふだんは自分の客以外の新規が入ってきても気づかないふりを決め込むくせに、調子のいいものだ。
「先生、いらっしゃいませー」
「お久しぶり、せんせー!」
女たちに手を振られ、宥人はどう返せばいいのか戸惑っている様子で、降伏するかのように胸の高さに両手を掲げて固まっている。
「いらっしゃいませ」
おれは新しい客のためにおしぼりを差し出した。宥人はまだ立ったままで、落ち着かないそぶりだ。
「どうぞおかけください。飲み物はどうされますか」
「あの、ぼくはカウンターで……」
「なにいってるの。ご覧のとおり暇なんだから、座って座って」
香里になかば無理矢理促されて、宥人は断りきれず席についた。
「ご指名はどうされますか」
おれの問いに、宥人は居心地悪そうに視線を下に向ける。
「いえ、とくに……」
「じゃ、あたしがお相手させていただきます。いいよね、ミヤちゃん?」
断る理由を見つけられなかった。ベテランの香里はこの店においてマネージャーのおれよりはるかに強い権力を持っている。
「えー、ずるい。あたしもー」
「結南もいいですかー?」
美咲、結南も小走りに駆けてきて、許可も得ずに宥人を挟んで座る。およそ弁護士の空気を感じさせない宥人を疑っていたふしもあったが、出演した番組を見たことで、客へのイメージが大きく変わったようだ。まだ指名がなくフリー状態の見込み客を女たちが水面下で奪い合っているのは明白だった。
ママのほうへ視線を送る。今週入ったばかりの新人ホステスとともに常連客の相手をしていたママも頷いて返した。店のボスがよしとするならば、黒服のおれの出る幕はない。
宥人は自分にはいつもの緑茶をオーダーし、女たちのためにウイスキーを入れた。最高級品ではないが、それなりに高い銘柄のものだった。手早く準備する。ボトルとアイスペールをテーブルにセットしたら、あとは女たちの仕事だ。
「せんせ、いつもお土産ありがとうございます」
香里がグラスを傾ける。宥人はアルコールの匂いにあてられたのか、顔を赤くした。
「先生はやめてください……」
「えー、だって先生じゃないですか。こないだテレビ見ましたよ」
結南がよけいなことをいって、宥人は慌てた様子で顔を上げた。
「テレビって、あのお昼のやつですか?」
「そうそう! かっこよかったです!」
「みんなで見たんだよねー」
その場にいなかったはずの美咲も、あたかも自分も気にしていたかのようにふるまう。さすがはナンバーワンというべきか、如才がない。
おれはカウンターにもどり、オーダーの内容を伝票に書き込んでいた。いつものコーヒーと茶の金額と較べたら数倍だが、弁護士の収入を考えれば、たいしたことはないのだろう。上の店にもあれ以来足を運んでいないようだし……
「あの……」
考えに耽ってしまっていたようで、気配に気づかなかった。カウンターの向こうに宥人が立っていた。
「注文ですか」
「いや、トイレに……」
「ああ、そこですけど」
トイレの場所などすでに知っているはずだが、宥人はなにかいいたげに突っ立っている。
「だれか入ってます? 空いたら声かけるんで、席にいてください」
宥人はそれでもなにかいいたそうにしていたが、フロアから女たちが呼ぶ声がして、けっきょくあきらめたようだった。おれは洗いものをしながら、席にもどっていく宥人の小さな背中を見送っていた。
先に来店していた客が帰り、宥人が最後の客になった。閉店時間よりすこし前。おそらくこのあとの来客はないだろう。
女たちが客をエレベータの前まで送る。おれの役目は店の前まで。ドアを開け、客とホステスを見送る。
「ありがとうございました」
頭を下げ、再び上げると、宥人と視線が合った。相変わらず、なにかを伝えたいようで、しかしなにもいわない。店にいる1時間半、トイレに立った一瞬を除いて、視線が絡むことはほとんどなかった。
ドアを閉め、店にもどる。おれはグラスやつまみの皿が放置されたテーブルに視線を向け、それから天井を見上げた。
非常階段に出た。足早に階段を降りる。革靴の底が軽やかな音を立てる。
1階のエントランスに宥人はいた。エレベータを降りて、タクシーを拾おうとしているのか、周囲を見回している。
「宥人さん」
声をかけると、驚いて振り返った。
「善くん」
4階ぶんの階段を駆け降り、さすがに息が上がっていた。意図的に落ち着いた声をつくって、いった。
「宥人さん、このあと予定あります?」
「いや、もう帰るだけだけど」
宥人は戸惑いの表情を浮かべている。警戒しているのか、腕に提げていた鞄を胸に抱えた。
「なにかあるの」
「いや……」
とくべつ考えていたわけではなかった。おれはすこし迷ってからいった。
「なんか、肉とか食いたいかなって」
「みんなが?」
「みんな? いや、ちがう。おれが」
アフターの誘いだと考えていたようで、宥人はますます当惑したようだった。おれを見つめて、聞きなおした。
「善くんとふたりで?」
「そう。嫌?」
「いや、全然嫌ではないけど……」
「じゃ、おれ店片づけてくるから、そこの『かどや』って焼肉屋で待ってて。向かいのカラオケ屋の隣。わかる?」
「たぶん……」
「10分で行く」
それだけいって、おれは再び非常階段に向かった。階段を上りはじめて、エレベータをつかえばよかったと後悔したが、わざわざ引き返すのも格好がよくない。
店にもどると、女たちが着替えて帰り支度をはじめていた。
「あ、ミヤちゃん、今からみんなで飲み行こうって話してるんだけど、いっしょどう?」
ママが声をかけてくる。ママはまだ店用のスーツのままだ。
「すみません。今日は用事あって」
「そう」
「あの、今ちょっと出てきていいすか。1、2時間でもどって片付けるんで」
「いいよいいよ。わたし閉めとくから、行っといで。掃除は明日でかまわないし」
なにか悟っているのか、ママはにっこり微笑んでおれの背中を軽く叩いた。気遣いに甘え、おれはジャケットとベストを脱いで空いた席に放り投げた。財布とスマホだけを持って店を出た。
宥人は店の前で待っていた。小雨が降りはじめていて、軒先の下で雨を凌いでいた。傘をさしていないおれを見てすこし眉を顰めた。
「風邪ひくよ」
「宥人さんこそ、店んなか入っててよかったのに」
店のドアを開けると、来客を報せるベルが鳴る。古くからある老舗店だ。ドアにもベルの音にも年季が入っている。
狭い店内には肉を焼く香ばしい匂いと煙が充満していた。週末には満席になることもあるが、平日ということもあって半分ほど空いていた。案内を待たず、空いた4人掛けの座敷に向かい合って座る。歌舞伎町に勤めるようになって何度も通っている馴染みの店だ。気を遣うこともない。
宥人のほうはこういった店が珍しいようで、壁に貼られた手書きのメニューやだいぶ傷んでほぼ読み取れない昭和の時代のスターのサイン色紙などを興味深げに眺めている。
「ごめん。こんな店しか知らなくて」
「え、そんな全然」