EXIT
「彼ら彼女らによると、やっぱり男性なら男性、女性なら女性とまったくおなじテリトリーに入りたいと望んでいるひとは多いと聞きますけどね」
「そういう方もいるとは思います。否定はしません。でも一部です。わたしは年間300人以上に聞き取り調査をしていますが、決して多くはありません」
相手側の意見を否定するのではなく、しかし断固として受け容れない姿勢を貫く。見事だった。
「ほら、ミヤちゃんも見てみ」
飽きてきたのか、香里がようやく画面をこちらに向けた。スマホのなかで、タレントたちに混じって、宥人が議論を続けていた。いつもとおなじスーツにネクタイといった姿だが、ヘアメイクが入っているのか、髪はセットされていて、見栄えよく映るように前髪を横に流している。テーブルの上で指を組み、背すじを伸ばして、凛とした姿を見せている。生放送のようだが、緊張している様子はまるでない。
「でも、実際にアメリカの陸上競技大会ではトランスジェンダーを装った男性が女子の大会に出場して……」
「どこの州ですか?」
男性タレントの言葉を遮る。厳しい口調ではなかったが、男性タレントは虚をつかれたように口籠もった。
「それはちょっと……今パッと出てこないですけど」
「選手名も? なんの競技でした?」
台本にない話題をつい持ち出してしまったのか、男性タレントはうまく取り繕うことができずに狼狽えている。弁護士に突っ込まれて慌てたのかもしれないが、コメンテーターとしてはずいぶんお粗末だ。
「とにかくですよ、そういうひとたちばっかりを特別あつかいするっていうのはちょっとねえ」
「特別あつかいしてほしいなんていってません。ふつうとおなじにしてほしいんです」
宥人の態度は毅然としていた。議論の場でどちらに説得力があるかは歴然としていた。
「まあまあ、じゃあCMの間に調べておくことにしましょう。いったんCMです」
ふだんテレビに親しみがないおれでも顔を見たことのあるベテラン司会者だ。空気を読み、場面を切り替えた。CMが流れるタイミングで動画は切れていた。
「すごーい。なんか別人みたいだったね」
結南にスマホを返しながら、香里がため息をつく。
「ふだんはぼーっとしてる感じなのに、なんていうか、ギャップすごいね」
「ですよね。テレビに出てるってことは、有名な弁護士さんなのかなあ。独身っぽいし、狙っといたほうがいいかもですよね!」
これまではまったく宥人に興味を示さなかった結南がたちまち色めき立つ。
「いや、無理でしょ」
思わず声が漏れた。
「ちょっと、ミヤちゃん、なんでよー」
拗ねる結南の肩越しに、ママが視線を向けてくるのが見えた。おれは失言に気づいた。
「そろそろ開店時間ですよ、みなさん」
素早くグラスを片付けて、看板に灯を入れるためにカウンターを出る。
「こら、逃げんなよー」
「もういいじゃん。準備しよ、ほら」
香里と結南が揃って更衣室に消える。どうにか誤魔化せたようだ。おれは安堵した。結南の機嫌を損ねると面倒だ。
客がくる前に、テーブルを拭き、セットしたグラスやメニューを整える。昨日出しそびれたゴミの袋をいったん外に置こうと非常口を開けた。
「……っと」
ドアの向こう側に人間の気配がして、咄嗟にドアを引いた。衝突することはなかったようだ。ゆっくりドアを開けると、例のバーの店員マオリが下の階へ降りていくところだった。ひとりではない。客らしき若い男といっしょだった。泥酔しているのか、ふらついている客に肩を貸し、半身を寄せ支えるようにして階段を下ろしている。それほど鍛えているようには見えないマオリには重労働に見えた。
「手伝おうか」
声をかけると、はっとしたように振り返った。おれが見下ろしていることに気づくと、顔を強ばらせた。
「いらねえよ。ほっとけ、クソが」
階段を照らす薄いライトの下、客の顔が見えた。スーツを着ているが、宥人ではない。青白い顔で、唇の端から涎が垂れている。かろうじて目は開いていたが、虚ろでどこを見ているのかわからない。
「なあ、それパキってんじゃねえの」
アルコールで酔っているようには見えない。完全に意識を飛ばしたその状態を、以前にも何度か見たことがあった。
「なんかクスリやった? 葉っぱ?」
「うるせえんだよ!」
マオリは慌てて客を連れて階段を降りようとしたが、客は足が縺れてうまくいかない。マオリは焦って今にも客を蹴り落としそうだった。
「待てよ、こら」
おれは階段を数段降りて、マオリの肩をつかんだ。相手は体を硬直させたが、前回の記憶が残っているのか、無理に振り切ろうとはしなかった。涙ぐましい気力でおれをにらんでくる。
「なんだよ。あんたに関係ないだろ」
「まあ関係ないけど」
ゾンビのような客を一瞥し、おれはいった。
「おまえら、客に盛ったりしてんじゃねえだろうな」
「はあ?」
マオリは露骨に不快そうな顔で唇をひん曲げた。
「なわけねえだろ。勝手にトンでるだけだよ。こっちも迷惑してっから」
「だったらいいけど、おれの知り合いになんかしたら黙ってねえから、おぼえとけよ」
「知り合い?」
マオリが嘲るように笑う。整った顔立ちといえなくはないが、その表情は陰湿で歪んでいた。宥人はこの男のどこを気に入って通っているのだろう。
「それって宥人のことかよ。なに、気に入ったの?」
答える気もおきない。相手も返事を待っていたわけではないようだった。自嘲気味に肩を竦める。
「なんかしようにも、最近全然顔見せねえし。あんたがよけいなことするから他の店に行ってんじゃねえの」
思いがけない答えだった。去ろうとするマオリの肩をもう一度つよくつかんだ。
「いってえな。まだなんかあんのかよ」
「きてねえの?」
「あ?」
「最近、宥人さん、店にきてねえの?」
「だからきてねえって。あれから1回もこねえよ」
「今日も?」
「今日もだよ。なんなんだよ。うぜえな」
吐き棄てるようにいって、マオリは客を連れて降りていった。ひとりで歩くこともできない状態の客をエレベータに乗せて他人の目にふれさせるのを嫌ったのかもしれない。
「ミヤちゃん、なにしてんの。お客様!」
ドアが開いて、ママが顔を出した。
「あ、すみません。すぐ行きます」
おれはすぐに店内へもどり、今夜1組目の客のためにおしぼりを取り出した。最近になって通い出した結南の指名客だった。ボトルとアイスペールを並べる作業に集中しながら、おれはマオリの言葉を頭のなかに反芻していた。
翌日、宥人は開店後、深夜0時を回ってから店にやってきた。この日はこないものだと思い込んでいた。不意をつかれて、おれはすこし慌てた。
「あら、菊地先生じゃない」
平日で店は暇だった。ママの客が1組だけ残っていたが、あとは早い時間に帰ってしまい、女たちは待機室で暇を持て余していた。トイレに立っていた香里が目敏く宥人を見つけ、スーツの腕を取った。
「どうぞどうぞ。びっくりしちゃった。この時間にご出勤なんて珍しいから」
「すみません……」
「やだ。うれしいってことですよ。さ、どうぞ」