EXIT
「カミングアウトのタイミングは自分で決めたいんです。だれかに追い立てられてしかたなくするんじゃなくて」
予想していなかった態度なだけに、思わず気圧されてしまった。どうやら見た目ほど貧弱ではないらしい。黙っていると、男は誤解したようで、慌ててまた顔を伏せた。
「すみません。変な話して……」
「いや、聞いたの自分なんで」
しばらく沈黙が流れた。男がなにかいおうと口を開きかけた。店のドアが先に開いた。
「おはよー」
「おはようございまーす」
出勤前に食事を済ませてきたらしいママとホステスたちがぞろぞろと店に入ってきた。男が慌てて立ち上がる。
「あら、お客様?」
かなり印象がちがうためか、さすがのママも昨日きていた一見の客だとはすぐには気づいていないようだった。
「いえ、もう失礼しますから」
男がもたつきながらも財布を取り出す。千円札を抜き出し、カウンターに置いた。
「すみません。お茶代……」
「いいですよ。オープン前だし」
おれは手を伸ばして札を圧しもどした。
「そんなわけにはいきませんから」
相手も負けずに圧しつけてくる。やはり想像以上に強情な性格のようだ。
「でも、一口も飲んでないから」
「あ、そうでした」
男は躊躇なくグラスをつかみ、一気に半分ほど飲んだ。水滴の浮いたグラスを札の上に置き、頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
女たちの間を縫うようにして去っていく。制する間もなかった。三つ折り目のついた札を摘まんで、おれは頬杖をついた。よくわからない男だ。
「ねえ、これシボンのケーキじゃない?」
百貨店の袋を勝手に覗き込んで、結南が声を上げる。
「食べていいですよ」
「マジで! やったあ」
着飾った女たちが着飾ったケーキ箱に群がる。その様子を呆れたように眺めながら、ママがカウンターのこちら側に回ってきた。開店の準備をするため、棚からボトルを取り出す。
「今のひと、昨日もきてた?」
曖昧に頷く。
「知り合い?」
「いえ、全然」
嘘はついていない。名前も知らない相手だ。おれはグラスを拭く作業を中断し、女たちに声をかけた。
「オープンしますよ。準備してください」
「はーい」
羊飼いになった気分でケーキを頬張る女たちを待機室に追いやる。店の看板に灯を入れた。この日は香里の誕生日で、すぐに常連客が顔を見せ、たちまち満席になった。あの奇妙な男のことを考える暇はなかった。
2週間ほどたった金曜の夜、出勤してビルの前でエレベータを待っていると、背後から足音が聞こえた。なんとなく振り向くと、あの眼鏡の男が歩いてくるところだった。マスクはしているが、最初の夜とおなじスーツ姿で、大きな鞄を提げている。おれに気づくと、壁に衝突したかのように足を止めた。
口を開き、すぐに閉じた。男の後ろからもうひとりべつの男がやってくる。月曜の夜にきた週刊誌の記者だった。おれのことをおぼえていたようで、目だけで合図する。おれも顎を引く程度の軽い会釈を返した。
エレベータに乗り込んだ。スーツの男が続き、記者の男もついてくる。
居心地の悪い空気。おれは4階のボタンを圧し、体を引いた。ほかの階に停まりたければ勝手に操作するだろう。おれはエレベータガールではないのだから、いちいち尋ねる義務はない。しかし、ふたりとも動かなかった。
エレベータが4階に着くと、おれは左手でドアを固定した。振り向かずに、いった。
「どうぞ」
戸惑うような、探るような空気。おれは首を捻って眼鏡の男を見た。
「降りないんですか?」
「あ……」
男は一瞬狼狽の表情を見せたが、鞄を持ちなおすと、首を振った。
「いえ、降ります」
おれの体の脇をすり抜けて外に出る。かすかに香水のような匂いがした。おれは箱のなかで苦い顔をしている記者にも顔を向けた。
「そちらは?」
記者は無言で首を窄めた。経費を削減するよう上から締められているのかもしれない。
エレベータを降り、鍵を取り出す。解錠し、店のドアを開ける。
「なにしてんの」
「え……」
眼鏡の男はぼんやりと立ち竦んでいる。
「入れば」
「でも……」
「さっきの記者、絶対まだ下で張ってますよ」
エレベータでしたように手でドアを押さえ、顎をしゃくって促す。
「上の店、行きたいんでしょ。うちの店ですこし時間つぶして、非常階段から上がればいい」
自分でも意味不明の提案だった。男も当惑している。
「嫌ならべつにいいけど」
「あ、いえ、嫌というわけでは……ただ、迷惑なんじゃないかなと……」
「オープン前だし、べつに平気です」
よけいなことに首を突っ込まない主義とはいえ、ここまで困った顔をされると、放っておけなかった。
「緑茶の料金さえ払ってくれれば問題ないですから」
その言葉に背中を押されたらしく、男は小さく頷いた。
「それじゃ……」
「どうぞ」
自分の店でもないのに、えらそうないいかただ。おれは自嘲気味に肩を竦めた。男を店に入れて、ドアを閉める直前に周囲に視線を配る。記者の姿はなかった。
私服のままで開店の準備に取りかかる。前夜は満席で忙しく、おれもアフターに付き合わされたため、片付けの途中で放置してしまっていた。テーブルに残されたグラスや皿を回収し、洗いものをはじめる。
男はカウンターに座って緑茶を飲んでいる。グラスを両手で包み、滑り落ちる水滴を指先で拭う。グラスに口をつけ、ほんの少量喉に入れてから、指先でマスクを摘まんで装着しなおす。育ちがよさそうだ。習慣や家庭環境は小さな所作にあらわれる。セレブ気取りの成金がぼろを出すのはたいていこういった細かい仕草や立ち居振る舞いの部分だ。
「ほんとにすみません。たすかります」
指先で眼鏡の位置をなおしながら、男が頭を下げる。
「気にしなくていいですよ」
グラスを洗いながら、おれはいった。
「よければ、これからも上の店に行く前に一回ここに寄ってからにしたらいいんじゃないですか」
「でも……」
「迷惑ではないので」
男はなおも躊躇っている様子だった。返事を待たずに、べつの質問をした。
「そういえば、お名前聞いてませんでした」
「ぼくですか。菊地です」
「いえ、下のほうの」
「あ、ゆうとです」
「どんな字書くんですか」
「あ、えっと、『宥める』っていう……」
「なだめる」
「あ、これです」
男はスマホを取り出し、素早く文字を打ち込んで、画面をおれに向けた。
「これに人間の人で、宥人です」
「きれいな字ですね」
おれは一度水を止め、作業の手を止めてから、スマホの画面に顔を寄せて漢字を確認した。それから視線を上げて宥人を見た。
「おれ、漢字苦手なんで、絵柄というか、かたちでおぼえるんです」
「おぼえましたか」
「おぼえました」
再び蛇口を捻って水を出し、グラスの泡を注いでいく。
「あの……」
「あ、おれは善です」
「ぜん……」
「善人の善です。善人ではまったくないですけど」
「そんなことないです」
手のなかでスマホを弄びながら、宥人が独白のようにいう。
「善人です。いいひとだと思います、とっても」
再び沈黙が流れた。どうも落ち着かない。それは相手もおなじのようで、所在なさげに視線を泳がせている。
「あの……」