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 ふと視線を落とすと、踊り場の隅に眼鏡が落ちているのが見えた。黒縁の眼鏡。かけていなかったのではなく、転げ落ちるときに飛んでいってしまったらしい。
「ちょっと」
 声をかけると、スーツの背中がびくっと跳ねた。
「はい……」
 声には戸惑いに加えて恐怖の色が濃くなっていた。舌打ちをこらえ、眼鏡を拾い上げた。
「これ」
「あ……すみません」
 おれが差し出した眼鏡を受け取るために、スーツの男が手を伸ばす。目を合わせようとはしない。おどおどとした態度はいかにも被虐的だった。一瞬指が触れあうと、またびくっと反応する。助けてやったはずなのに、これではおれのほうが悪人のようだ。
 おれは無言で眼鏡を返し、店にもどった。そのあとのことは知ったことではない。
 よけいなことに首を突っ込まない主義だというのに、あっさりと曲げてしまった。若干の後悔を抱きながら、おれは片付けを済ませ、店を出た。週のはじめに無駄な骨を折ってしまった。
 エレベータを待ちながら、おれはあのスーツの男を思い出していた。終電で帰るといっておきながら、上の階の店に行っていたらしい。エレベータ内部の壁面には各階の店名が記されている。「彩」は4階、上の5階には2店舗入っているが、1軒は先月末で退去した。もう1軒はボーイズクラブとなっているが、ターゲットは男だ。上がゲイバーだから競合にはならないとママが以前話していた。
 あの眼鏡、無事に帰れただろうか。おれがしゃしゃり出たことで、かえってややこしいことになっていなければいいのだが。
 心配が的中したことを、おれは翌日に知ることになる。

 月曜の閉店間際にきた客は、火曜の開店間際に再びやってきた。
 まだママもホステスも出勤していない時間帯。おれはひとりで開店のための掃除をはじめていた。ドアが開いたことにも気づかなかった。トイレ掃除を終えてホールに出ると、ぼんやり突っ立っている男と鉢合わせになった。
「わっ、びっくりした」
「あ、すみません」
 マスクをして、スーツではなく白いシャツにジャケットという姿だったが、声で昨日の男だとわかった。
「えっと、昨日……」
「はい、おぼえてますよ」
 すぐに平静を取りもどし、おれは手にした掃除用具を手早く片付けた。
「まだ開店前なんですけど」
「そうですよね。すみません」
 いちいち謝る男だ。おれはカウンターに回って手を洗った。その間も、男は居心地悪そうに、といって帰ろうともせず、視線を泳がせている。
「なにか飲んで待ちます?」
「あ、いえ、いいんです」
 意を決したように、手に提げていた紙袋を突き出してくる。
「あの、これ、昨日のお詫びとお礼に……」
「おれにですか?」
 男が頷く。そういえば、昨夜は謝りはしたが礼はいわなかった。気にしてはいなかったが。
 袋の表面には銀座の百貨店のロゴが印刷されていた。なににしても高価そうだ。
「べつにいらないです。なんもしてないんで」
「でも……」
「それに」
 おれはカウンターごしに手を伸ばして男のマスクをずらした。男は一瞬体を強ばらせたが、避けなかった。マスクの下の顔は腫れて、唇の端が切れていた。
「これ、おれのせいですよね」
「そんな……ちがいます。ぼくが……」
 ため息。おれはマスクから手を離して、自分の頭を搔いた。やはり、あの男は腹いせに八つ当たりをしていたようだ。おれが下にいるのはわかっているのだから、文句があるなら直接くればいい。強い相手に立ち向かう代わりに弱い標的を見つけて憂さを晴らす連中は何度も見てきた。卑怯で、陰険だ。吐き気がする。
「だいじょうぶですか」
「あ、はい……」
 男はマスクをもとの位置にもどした。一瞬見ただけだが、かなりひどそうだ。昨日おさめたはずの苛立ちが再び湧き起こってくる。
「なんなんすか、あいつ。彼氏?」
「彼氏……ではないと思います」
 随分と歯切れが悪い。おおかた色恋営業のカモにされているというところか。
「じゃ、昨日うちにきてたもうひとりの出版社のほう?」
「ああ、やっぱり出版社の……」
 口が滑った。おれはため息をついた。グラスに氷を入れ、緑茶を注ぐ。
「座って」
「いえ、ぼくは……」
「いいから、座って」
 カウンターに緑茶のグラスを置く。男は躊躇しながらもカウンターの椅子に浅く腰掛けた。
「いつも暴力ふるわれるんですか」
 深入りする気はなかったが、いくぶんかは責任を感じていた。グラスを整理しながら、おれは尋ねた。
「いえ、はじめてです。いつもは……」
 緑茶には手をつけず、膝の上で指を組んで、男は俯く。
「いつもはやさしいですか」
「やさしい……ふつうだと思います」
 やはり歯切れが悪い。おれはサディストではないが、その要素を持っている人間なら加虐性を刺激されそうだ。
「店にはよく行くんですか」
「そう……ですね。週に2回くらい」
「昨日は間違えてうちに入ったとか?」
 そんなはずがないことはわかっていたが、答えやすいように質問した。
「そういうわけでは……記者のひとがいたの、見えたので、咄嗟に……」
「まあ、上の店に行くひとだったら、うちの店には用ないですよね」
 相手が黙り込む。おれは差別的な人間ではないつもりだが、無意識に棘のある言葉になってしまった。取り繕うように話題を変えた。
「あの、芸能人かなんかとかですか」
「え?」
 男は眼鏡の奥の目を瞬かせた。
「ぼくが? まさか。なんでですか」
「週刊誌の記者に追っかけられてるから」
「ああ、そうか。そうですよね。いや、全然ちがうんです」
 捲し立てるようにいって、男はひとりで何度も頷いた。
「あの、ぼく、実は弁護士をやってまして」
「弁護士」
 公務員でも会社員でもなかった。約10年の水商売経験から、人間を見る目には自信があったが、勘ははずれていたようだ。
「今手掛けているのが、なんというか、すこしこう……センセーショナルというか、メディアによく取りあげられるものですから」
 そういって男はいくつかの事件を挙げたが、すべて初耳だった。
「すんません。テレビもネットも見ないもんで」
 六本木の店にいたときはそれなりに客と言葉を交わすために多少の時事ネタを仕入れてはいたが、ここではせいぜいゴシップネタくらいで、それも客やホステスの話に相槌を打つ程度だった。もともと関心がない。
「いえ、いいんです」
 男がマスクの下で微笑む。落胆というよりはむしろ安堵しているように見えた。
「そのなかで、いわゆる性的少数者に関する訴訟があって……その、つまり、同性同士のカップルの権利を訴える内容なんですけど」
「はい」
「その担当をしているのがぼくで、ぼくは……その、ご存じのように、男が好きなタイプの男なんですけど、カミングアウトはまだしてなくて……」
「ゲイの弁護士がゲイの弁護しちゃいけないって法律あるんですか」
「いえ、ないです」
「じゃあべつにいいんじゃないですか。そういう店に行ってることばれても」
「そういう問題じゃないんです」
 男はおれの目を真っ直ぐに見据え、はっきりいった。これまでの煮え切らない態度が嘘のように力のある声だった。
作品名:EXIT 作家名:新尾林月