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「あー……けっこうきついかも」
 本当にきたのかよ。つくづく変わったひとだ。
「出張は?」
「だいじょうぶ。どうせ最終日は懇親会だけだし。まだ熱ある?」
 起き上がろうとするおれを制して、宥人が顔を覗きこんでくる。出張先はどこだったのか、どうやってきたのか、尋ねようとしたが、宥人に立て続けに質問されて、言葉を挟む隙を見つけられなかった。
「薬は服んだ?」
「ママたちが買ってきてくれた」
 枕元に置いたままの医薬品の箱を見て、宥人が頷く。
「病院には行った?」
「いや……おれ保険証もないし」
「行かないと駄目だよ。ウイルスかもしれないし」
 いいながら、宥人はスマホでだれかに電話をかけはじめた。
「ああ、先生ですか。こんな時間にすみません。菊地です。明朝診てほしい患者がいるんですけど……」
 電話をしながらも、テーブルの上に散乱した弁当の食べ残しや空き容器をゴミ袋に入れ、脱ぎ散らかした衣類や汗で汚れたタオルを洗濯機に入れる。
「はい。できれば。そうですか。よろしくお願いします。場所は新宿です。あとで住所送りますから……8時半ですね。わかりました」
 通話を終え、おれのほうに向き直る。
「明日の朝8時半にお医者さんくるから」
「え、家にきてくれんの」
「訪問医療専門の先生だから、だいじょうぶ。看護師もいっしょだから」
 訪問医療……よくわからないが、病院に行かずに済むのならそれに越したことはない。店だってそう長く休んでもいられない。医療費が気にはなったが、自尊心が邪魔をして聞けなかった。
「宥人さんもいんの」
 我ながら子どもっぽい質問だったが、宥人は緩やかに微笑んだ。
「いるよ」
 宥人が朝までいるというだけで、安心感が広がる。情けないが、体調が悪化するにつれ、心細さを感じていたようだ。そこまで考えて、はっとした。
「てかさ、宥人さん、ここにいちゃまずいんじゃない」
「なんで」
「だってほら、ウイルス性のやつだったらさ、明日からの仕事とか裁判とか……」
「病人はそんなこと気にしなくていいんだよ」
「いや、気にするだろ」
「いいんだって。やりたくてやってるんだから」
 宥人は手を伸ばし、おれの肩を擦った。自室にいるからマスクもしていないし、冷たい風が入りこむために窓も開けていない。宥人がマスクをしているとはいえ、空気感染するタイプのウイルスなら間違いなく伝染るだろう。
「おなかは? 空いてない?」
「あー……食欲はないけどなんか食べたいかも」
 支離滅裂なようだが事実だ。空腹はずっと感じていたが、欲求に反して胃が受け付けない。時折引っかかれたような痛みが胃のあたりにはしるのは、空腹状態で薬を服用したのが原因かもしれなかった。
「雑炊とかなら食べられるかな。つくってみるけど、無理はしなくていいからね」
 そういって、宥人は冷蔵庫を開け中身を点検しはじめた。最後に宥人がここで料理をしたのはもう2週間ほど前で、賞味期限を過ぎた食材もあった。冷凍しておいた米と葱、24時間営業のスーパーで買ってきたらしい卵で雑炊をつくりはじめる。すぐに鰹と昆布のいい匂いがしてきて、おれはさらに空腹を実感した。
 すこしも待たずに、宥人が雑炊の皿を持ってきた。卵と葱だけのシンプルな雑炊を木製のスプーンで掬う。口にはこぶと、出汁の風味が漂った。腫れた喉を必要以上に刺激することなく、食道をするりと落ちていく。
「食べられそう?」
「うん。旨い」
「よかったです」
 宥人は笑って、荒れた部屋の掃除を再開した。作業をする宥人の背中を眺めながら、おれは雑炊を胃に入れていった。
「なんで宥人さんのつくってくれたもんだと食えんのかな」
「おいしいから?」
 宥人は茶化すようにいったが、おれは笑わなかった。
「いや、そっちじゃない」
「えー、なんだよ」
 宥人がまた笑う。床に散乱したティッシュやバスタオルをていねいに拾い上げ、片づけていく。どれもおれの吐瀉物や汗にまみれていたが、気にするそぶりは見せなかった。
「宥人さん」
「ん?」
 手を止めず、振り向かないまま答える。
「なに?」
「おれ、宥人さんに謝りたくて」
「もういいってば。体調悪いんだから」
「ちがう」
 半分ほど残った雑炊の皿をテーブルの上に置いて、おれは宥人の背中を見つめた。視線を感じたのか、宥人が振り返る。
「この前の……」
「ああ……」
 一度は目を合わせたものの、すぐに逸らされる。宥人はなんでもないというような表情で掃除を続けた。
「それももういいよ」
「よくない」
 ベッドに寝たまま、宥人の手をつかむ。宥人の表情に戸惑いと警戒心が宿る。
「帰んないでよ、宥人さん」
「帰んないって。いったじゃん」
 それでもおれは宥人の手を離さなかった。宥人の手はひんやりとして心地よかった。おれの手はかなり熱いだろう。
 それほどつよい力ではない。振り払おうと思えばできたはずだが、宥人はそうしなかった。握り返してこそしないものの、おれの腕が疲れないよう膝を曲げてベッドの横にしゃがみこんだ。左手をおれに預けたまま、もう片方の手で乱れた布団を整えた。
「宥人さん……」
「なに」
「六本木の話、おれ、宥人さんにしたっけ?」
「前に勤めていたお店の話? してないと思うよ」
 おれはもともと饒舌なタイプではない。しかし、宥人の声はやさしく、気がついたら心を解かれている。
「けっこう有名なキャバクラだったんだけど、そこの女の子とできちゃってさ」
 宥人は表情を変えずにおれの話にじっと耳を傾けている。
「もともと彼氏のDVで悩んでたみたいで、相談に乗っているうちにいつの間にかって感じで……」
「それが原因で新宿に移ったの?」
「いや、店内恋愛はNGだけど、それだけだったら追放はされない」
 他人に話したことはない。どう話せばいいのかわからなかった。それでも話さずにはいられなかった。
「頼まれて、DV彼氏に話つけに行ったら、すげえ揉めてさ。ボコボコにしてやったんだけど、実はそいつ彼氏じゃなくてホストだったみたいで。要は、売掛払わないで飛んでたんだよ。よくある話だけど。ホストからしたら、金の回収もできないうえに知らん男にボコられて、最悪だよな」
 思わず自嘲の笑みが漏れる。わざわざ恥部を晒すのは馬鹿げていたし、無駄だと思ったが、止められない。
「その筋の奴らが店きて、女もいっしょに事務所に連れてかれて。報復されんのはべつにいいんだけど、彼女がおれに嘘いってたってことがショックだったし、おれが勝手にやったことで自分は知らないとかっていいやがってさ。びびったのかもしれないけど、それはないよな」
 天井を見つめたまま話し続ける。宥人がどんな顔でおれを見ているのか気になったが、顔を向ける勇気は湧かなかった。
「それで、おれ、思ったんだけど」
 喉に痰が絡み、噎せた。
「だいじょうぶ?」
 烈しく咳きこむおれを心配して、宥人が空いた手で背中を擦ってくる。
「寝たほうがいいんじゃないの」
「平気だよ」
 空咳をして、おれは大きく息をついた。
「思ったのがさ、おれはたぶん、だれかに頼られるのがうれしいんじゃないかって」
「善くんがやさしいからでしょ」
「ちがう。やさしいからじゃない」
作品名:EXIT 作家名:新尾林月