EXIT
自分は他人を愛することができないのではないかと不安になるときがある。これまでに付きあった女たちを愛していたかと聞かれたら、即答できない。
無性に宥人と話がしたくなった。最近、そういうことが増えた。宥人が聞き上手なせいかもしれない。しかし、電話もLINEも返事はなかった。おれは重い気分を引き摺ってだれもいないアパートに帰った。ひとりの部屋には慣れているはずだったが、寒々とした空気になかなか寝付くことができなかった。
その日から1週間、宥人は家にも店にも姿を見せなかった。かろうじてLINEの返信はよこしたが、内容は必要最低限の簡素なものだった。
SNSは相変わらず頻繁に更新されていたが、プライベートな内容ではなく、取り組んでいる難民支援や性差別に反対する運動の告知、裁判の結果などの業務的なものがほとんどだった。
電話はほとんどしたことがない。わざわざかける理由を見つけられなかった。「この前なんだったの?」というLINEにも「なんでもない、だいじょうぶ」と返ってきただけだった。「香里さんに告白された」と送ると、驚いて飛び跳ねるウサギのキャラクターのスタンプが送られてきた。
単に忙しいだけかもしれないが、あまりの素っ気なさが気がかりだった。これまでほぼ毎日のように通ってきていただけに、姿を見せない理由を知りたいと思った。しかし、直接尋ねるのは憚られた。拗ねた子どものように受け取られたくなかった。
火曜の夜、店は最近にしては珍しく暇だった。
「今日はもうお客さんこないと思うし、たまにはみんなで飲み行く?」
閉店時間の1時間前にママがいい出し、店内で暇を持て余していた女たちが歓声を上げた。
「やったー、ママ最高!」
「お肉食べたーい!」
「はいはい。さっさと準備して」
ママが手を叩いて、カウンターのおれにも声を掛けてくる。
「ミヤちゃんも行くよね?」
「あ、すみません。おれ、ちょっと……」
女たちの輪から香里の視線を感じた。しかしそれは一瞬で、すぐに目が逸らされた。あの告白がなかったかのように、香里はごく自然に振る舞っていた。
とくに用事があったわけではなかったが、宥人のことが気にかかっていたし、騒ぎたい気分ではなかった。おれは手早く片付けを済ませ、女たちを見送ってから店を出た。
ふだんよりも早い時間に帰宅すると、アパートの電気がついていることに気づいた。急いで階段を上がる。部屋には鍵がかかっていなかった。ドアノブを回したが、その前に内側から開いた。
ちょうど出て行くところだったらしく、靴をつっかけている。かなり急いでいたようだ。慌てて外に出ようとして、おれの胸に衝突した。
視線が合う。大きめのマスクをしていたが、眼鏡の奥の眼が驚いて見開かれるのがわかった。
「宥人さん、なにしてんの」
「ごめん、勝手に入って……」
「いいけど、どうしたの」
「ちょっと忘れもの……」
おれの視線から遠ざけるように宥人が身を引いたが、見逃さなかった。スーツの腕をつかみ、引き寄せる。
「なにこれ」
マスクをずらすと、左目の横から頬にかけて腫れているのが見えた。形容しがたい感情がわき上がってきて、おれは腕をつかむ手に力をこめた。
「痛……善くん、腕痛いから」
「黙って。こっちきて」
靴を脱がせ、ソファに座らせる。反抗しても無駄だと知ったのか、宥人はおとなしく従った。
マスクを取ると、顔の腫れだけでなく唇の端が切れているのもわかった。
「だれにされたの」
宥人は膝の上で両手を揃え、俯いて答えない。集会で嫌がらせをした男たちを思い出したが、可能性は低いだろう。悪知恵が働く陰湿なタイプだ。弁護士相手に暴力沙汰を起こしたりはしないだろう。となると、やはりひとりしかいない。
「あいつか」
宥人は黙ったままだ。沈黙は肯定と取っていいだろう。
「宥人さんさあ……」
宥人の足下にあぐらをかいて床に座り、おれはため息をついた。
「こういうの、前から?」
「こういうのって……」
「だからこういうのだよ」
手を伸ばして顎をつかむ。傷に触れて痛いのか、宥人が表情を歪める。
「あいつと付き合ってないっていってたよね。なのになんでこういうことになんの。売掛払ってないとか?」
「ちがう……」
おれの怒りを察知してか、宥人の声は震えていた。
「てかなんでまた店行ってんだよ」
「行ってない……」
「じゃなに、家きたわけ?」
また無言になる。
「今まで聞かなかったけどさ、どういう関係なの? なんで家知ってんだよ? ストーカー?」
「話さなきゃ……」
「駄目だよ。決まってんだろ」
意図せずきつい口調になった。宥人を責める気はなかったが、制御できなかった。
「前に……」
膝の上に置いた両手を組み、宥人は話しはじめた。
「マオリの前にそういう関係だったひとがいて、あの店にはそのひとといっしょに行ってたんだけど……」
彼氏がいたことがないといったが、それにちかい関係の人間はほかにもいたわけだ。おれはポケットから煙草の箱を探り出し、1本つまみ取って咥えた。安物のライターはなかなか点火せず、苛立ちを助長させた。舌打ちするおれを宥人は不安げに見つめていた。
「で?」
ようやく煙草に火をつけ、肺に煙を流しこむと、おれはいった。
「その、彼氏じゃないけどやることやってた男その1とはどうなったの」
「……別れた」
「別れた? 付きあってないのに?」
「関係がなくなったって意味だよ。向こうに奥さんと子どもがいるのがわかって……」
不倫関係だったわけだ。宥人には隠したままだったのだろう。弁護士の宥人が自ら望んで不貞行為に溺れるとは考えにくい。すべてを棄ててもいいというほど惚れていて理性を失っていたならわからないが、別れたということはそこまでのめり込んではいなかったのだろう。
「大学の先輩で、そのひとの会社の顧問弁護士をしてたこともあって、揉めたっていうか……うまく別れられなくて悩んでたときに、マオリが相談に乗ってくれて……」
今度はその男と関係がはじまったということらしい。呆れるほどよくある話で、これがもし小説なら、定番すぎると編集者から突き返されるだろう。
「それで、今度はその2の男と別れられなくなったってこと?」
「ちがう……」
「なにがちがうの」
「番号がちがう」
宥人は両手で顔を覆って、籠もった声でいった。
「マオリはその2じゃなくてその3……先輩の前に、大学の同級生と……」
煙草を根元ちかくまで吸って、灰皿に圧しこんだ。
「宥人さんって、意外と馬鹿だね」
宥人はまた黙ってしまった。おれにとっては、付きあうことも別れることも簡単だった。なんでも完璧にこなせる宥人がこれほど簡単なこともできず、しかも何度もおなじことを繰り返している事実を信じられなかった。
「で、なに、今度はおれを第4の男にしようとしてるの」
「ちが……」
「ちがわないだろ」
2本目の煙草に火をつけながら、おれはいった。
「うちに毎日きてたのも、ストーカーから逃げるためだろ。おれは用心棒代わりで、ここはシェルター代わり」
「ちがうよ……」
「どうでもいいや、もう」