EXIT
宥人がどういうつもりでおれに構っているのかははっきりしないが、それもいつまで続くかはわからない。依存しすぎないほうがいい。そのくらいの分別は持っているつもりだった。
ドアが開く音がして、香里が出勤してきた。ベテランの彼女は同伴がなければ基本的にだれよりも早く店に出て準備をする。
「おはようございます」
「おはよう、ミヤちゃん。あれ、今日なんかいつもより疲れてない? 平気?」
店長とはいえボーイ兼任のおれにも気を配る。ママにはもちろんホステスたちにも信頼され、他に替えのきかない存在だった。
「全然平気っすよ。週末、ちょっと昼動くこと多かったんで、若干寝不足なだけです」
「そうなの」
香里はふだんより言葉すくなだった。気にはなったが、宥人のSNSを追うのに忙しく、とくに気を向けることはなかった。
その日の営業が終わった後、香里から飲みに誘われた。ちょうど宥人が仕事で家にこない日だった。他に予定もなく、応じることにした。もちろんママの許可も取っている。わざわざ仕事終わりに誘うほどだからなにか相談ごとがあるのだろう。ホステスのケアも黒服の仕事のうちだ。
香里が行きつけだというバーにふたりで行き、店の話や客の話をした。香里に誘われることは珍しく、なにか話したいことがあるものと考えただけに拍子抜けしたが、単にストレス解消のつもりだったのかもしれない。
馴染みのバーテンダーも含めて他愛ない話をしていたところで、電話が鳴った。宥人の名前と番号が表示されていた。会話が途切れたタイミングでトイレに立ち、かけ直した。
「宥人さん、どした?」
電話の向こうの声は掠れ気味だった。
「善くん、今外?」
「ああ、今香里さんと飲んでるよ」
「香里さん……そうなんだ」
「店の近くだけど宥人さんもくる?」
「いや、やめとくよ。楽しんで。また」
短い通話を終え、席にもどった。
「ママから?」
「いや、知り合いです」
時刻は4時をまわっていた。宥人がこんな時間に電話をしてくることは滅多にない。ふだんはLINEが基本だ。気になった。
「すみません、香里さん。おれ、そろそろ……」
ほかの客の相手をするためにバーテンダーが離れたタイミングで財布を出したが、香里が即座に制した。
「ちょっと待って。まだ話したいことあるから」
香里の眼に真剣さが宿り、おれは椅子に座りなおした。
「このあと用事あるの」
「いや、用事はないです」
香里を持て余している自分に気づいた。年齢こそすこし上ではあるものの、香里はこの年でもしっかり太い客をつかんでいるだけあって申し分のない美人だったし、ふたりきりで飲めるのはひとりの男としては本来ありがたいことと考えるべきだったが、すでに意識は霧散していた。
「なにかおれに話したいことあるんですか」
「うん」
「店のことですか」
「ううん、ちがう」
香里にしては歯切れが悪い。もどかしく感じた。おれが黙っていると、香里がようやく口をひらいた。
「ミヤちゃん、最近彼女できた?」
思いがけない話だった。思わず笑ってしまった。
「いや、できてないっすよ」
「ほんと?」
「ほんとですよ。なんでですか」
「んー、なんか最近そんな噂が女の子の間で流れててさ」
確かに、ここのところ宥人がまめにシャツにアイロンをかけ食事に気を遣っているせいで、見た目にも印象が変わっていたのかもしれない。女の敏感さを甘く見ていたようだ。
「もし彼女いないんだったらさ」
香里はカウンターに肘をついておれを真っ直ぐ見つめた。
「どう、あたしとかは」
思いがけない、を通り越した話だった。唐突すぎた。
「いやー……」
情けなくも、馬鹿丸出しの迎合の笑みが浮かんだ。
「だよね。わかってた」
香里の反応はさっぱりとしたものだった。ジントニックのグラスを半分ほど一気に空にして、再びおれを見つめた。
「好きなひとはいるんだね」
「いや、そんなことも……」
「いないの?」
香里の視線を受け止めるのにはかなりの胆力が必要だった。香里は大きな黒い目を向け、瞬きもしなかった。冗談でないことは明らかだった。
「じゃ、あたしにも可能性あるってこと?」
さすがだと思った。見事な手順だ。しかし、真剣な表情を見ていると、打算だと切って棄てることはできなかった。おれは相手とおなじくらい真剣な顔で真っ直ぐに眼を見返した。
「すみません。ないです」
隙間をつくらずに、続けた。
「香里さんはすてきな方ですけど、仕事仲間として尊敬しています。恋愛感情は生まれないと思います」
「そう」
香里は残りの酒を飲み干し、バーテンダーにウイスキーのロックをオーダーした。バーテンダーが離れてから、おれに微笑を向けた。
「やっぱミヤちゃんだね」
「え、なにがですか」
香里の軽やかな態度におれもすこしリラックスでき、まったく減っていなかった焼酎の水割りに口をつけた。
「可能性ゼロだったらすぱっと切ってくれたほうがさ、こっちとしてはありがたいじゃん」
香里が笑いながらいう。見た目ほど酔ってはいないらしい。新しい酒を受け取り、グラスの縁をネイルの先でなぞった。
「ミヤちゃんのことは前からいいなって思ってたんだけど、最近、どう考えてもいいひとできたなって感じてたし、周りのみんなもそういってたから、なんか焦っちゃって」
「いや、そんな……」
「前の店でも女の子と付きあってたって聞いたしさ」
わずかに背骨が冷えた。だれから漏れたのか。どういう意味なのか。前にもホステスに手を出したのなら可能性があると思ったのか。それとも逆に、もう店の女には手を出さないという印象を持ったのか。香里に対する親しみが一瞬で消え、疑心が渦を巻いた。
「……なんて聞いたんですか?」
「詳しくは知らないんだけどね」
もっとも古株の香里のことだから、ママが話したのかもしれない。それ以上詰問する気にはなれなかった。今後の仕事にも影響がある。
「ごめんね、変なこといって」
「いえ……」
「明日からもまたいつもどおり接してくれる?」
「もちろんです。よろしくお願いします」
そうはいったものの、勝手なものだ。告白する側はすっきりするかもしれないが、された側は気を遣わずにいるのにすら体力がいる。
カミングアウトのタイミングを慎重に見計らっているという宥人の言葉を思い出した。宥人なら、自身の状況や感情だけでなく、相手の心情にも気を配るはずだ。
もうすこし飲んでいくという香里を残してバーを出た。とくに念を押されたわけではないが、このことはママにも告げず胸におさめておくつもりだった。
高揚感も罪悪感もなかった。世間話の延長のようにはじまって終わった話。照れ隠しなのかもしれないし、香里の気持ちは素直にうれしかったが、こんなものだろうかという虚無感があった。
考えてみれば、自分からだれかに付き合ってほしいと頼んだことはなかった。断ったこともはじめてだった。結婚するわけでもないし、べつにどうでもいいと思っていた。別れるときも、最後のひとりを除けばほぼ後腐れなく別れることができた。顔を思い出すような相手もいない。