EXIT
ため息とともにソファに深く腰掛ける。かなりお疲れのようで、珍しくネクタイを緩め、スーツのボタンをすべて開けた状態で半身をソファにもたせかけている。
「怒ってないけど、ちょっと心配。善くん、喧嘩っ早いとこあるから」
「手は出さなかっただろ」
「そういう問題じゃないんだよ」
「我慢したんだから褒めてほしいな」
「褒めません」
教師のような素振りで腕を組み、宥人がおれをにらむ。おれは素直に頭を垂れた。
「すみませんでした」
おれが殊勝な態度を見せたのが意外だったのか、宥人はふっと力を抜いて微笑んだ。
「もういいよ。怒ってくれたのはうれしかったから、お礼に善くんが好きなのつくる。おなか空いた?」
困った顔をしながら、非難するのではなくむしろお礼だという。宥人の選ぶ言葉や態度は、まるでおれのことをすべて知り尽くしているかのようだった。
しかし、確かに、昼からなにも腹に入れていなかった。空腹ではあったが、宥人につくらせるのは気が引けた。
「朝早かったし疲れてるっしょ。なんか外に食いに行くのでいいよ」
「いや、気分転換にもなるから。オムライスとかどう。鶏モモと、ごはんも冷凍したやつがまだ残ってたから」
疲労の色を見せることなく、宥人はさっと立ち上がりキッチンに立った。冷蔵庫を開け、中身を物色する。
おれはハンバーグやらオムライスやらナポリタンやら、子どもっぽい料理が好きらしい。これまで付き合った女は手料理など拵えるようなタイプではなかったから気づかなかった。宥人はすでにおれの好みの料理や味付けを完全に把握していた。
「デミグラスとケチャップどっちがいい?」
「ケチャップ」
「了解」
スーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイを締めたまま調理に取りかかる。小さくて頼りないように見える背中が、昼間のスピーチを聞いたせいか、実際のサイズよりも大きく見えた。こんな細い体で、あのような醜悪な言葉やあからさまな悪意を一身に浴びて耐え続けてきたのかと思うと、胸が詰まった。
「で、どうだった?」
「なにが」
「集会。はじめて参加してみて」
「ああ」
宥人の手もとを眺めながら冷蔵庫から缶ビールを取り出す。手伝おうにも、おれは卵ひとつ焼けない。邪魔になるだけだ。
「おれの知ってる集会とはちがってたけど、おもしろかった」
「おもしろかった?」
宥人が笑う。
「あ、いや、おもしろかったっていうのはちがうかな。今まで知らなかったことばっかで、勉強になったし、もっと知りたいと思った」
正直な感想だった。宥人の存在が身近にあるためにそう感じたのかもしれない。
「ほんと?」
宥人が振り返る。表情が明るく輝いていた。
「そういうふうにいってもらえるのがいちばんうれしいよ。ふだん関心がないひとに興味を持ってもらうための集会だから」
声を弾ませる宥人は本心からうれしそうで、おれは誇らしいような気持ちになった。
「アフリカの女のひと、だいじょうぶそうだった?」
ソファに座り、宥人の背中に声を掛けた。
「うーん。やっぱりかなり追い込まれてる感じで心配かな。ちょっと話したら落ち着いたみたいだけど」
女性は名前を出してメディアに自ら出て権利を主張しているようだったが、それ以上は守秘義務に反するのだろう。
情緒不安定な依頼主を落ち着かせるのは弁護士でなくセラピストの仕事なのではないかと思ったが、宥人に関してはそんな指摘は無用だった。そもそも正規の依頼料を受け取っているかさえも疑わしい。状況から考えても国内で就業できる状態でないことは明白だ。宥人の懐の心配などする立場ではない。あえて尋ねることはなかったが、昼間の宥人の支持者たちの言葉どおり、一般的な弁護士とはかなりちがった手法を取っていることは確かだ。宥人のほうこそ、追い込まれて摩耗することはないのだろうか。
数十人の聴衆の前でマイクを手に力強く語りかける宥人の姿は雄壮といってよかった。今こうして疲れも見せずおれを気遣うのも、見た目からは想像もできないような強靱な精神力があってこそだろう。そのことにおれはなぜか苛立ちのようなものを感じていた。おれの前でさえも気を張り、本心を隠しているように感じたからだ。
「宥人さんの親ってなにしてんの」
「うち? 両方公務員だよ。役所の職員と教員」
固い職業に就いているわけだ。おれが生きてきた世界とはまったく異なるもうひとつの世界が存在することを意識した。
「長男なのに結婚してなくて申し訳ないけど、妹たちがそれぞれ家庭を持ってるからね」
玉葱の皮を剥きながら、宥人が笑う。家族には自身のセクシュアリティを明かしていないらしいが、身近な人間にも本来の自分を曝け出すことができないのはつらいだろう。
「宥人さん、恋人とかいたことないの」
宥人の背中が小さく笑う。
「ないよ。そういうのは諦めてる」
立ち上がって、気配を消し、鶏肉を切っている宥人の背後に近づいた。無防備な首に手を触れさせる。
「わっ」
薄い皮膚に指先が触れた瞬間、宥人が驚いて振り向いた。
「びっくりした。なに?」
「や、べつに」
両肩に手を置いて、軽く筋肉に指先を圧しあてる。
「なんも手伝えないから、せめて肩もみとかしようかなって」
「うれしいけど、包丁持ってないときがいいかな」
宥人が笑う。軽く身を揺すっておれの手を振り解く。おれの狼狽には気づいていない。宥人の背後でおれは静かに狼狽えていた。宥人が気づくのがほんのすこし遅れていたら、間違いなく宥人の体を背中から抱きしめていたとわかっていたからだ。そのあとなにをいうか、どうするかも考えず、衝動的に。
「おれじゃん」
思わず独白した。店の開店準備をしている空き時間にスマホを覗いていたときだった。宥人の集会での様子やネットの反応が気になり、SNSをひらくと、宥人がオムライスの写真を投稿していた。集会が終わって夕食を取ったという他愛ない日常の1コマだったが、オムライスの皿の脇におれの肘が写りこんでいた。あえて指摘するような反応はなく、当人であるおれだからこそわかる程度のわずかな写りこみだ。
同類といえる集会の参加者にも気取られないほど徹底的に気を遣っている宥人にしてはあまりに迂闊なようにも感じるし、おれのような人間が常に周囲にいることをアピールするための作為的な自衛手段のようにも感じる。SNSにアップロードされた1枚の写真から宥人の真意をはかることは、ふだんネットにふれることのほとんどないおれには難解すぎた。
グラスをセットする手を止め、おれは小さな画面に表示された写真の小さな肘の数ミリをじっと見つめた。集会で数十組の目に晒され、ネット上ではさらに多くの目が向く宥人の動向に、ほかの人間では到底入りきれない距離感で自分が存在するのが擽ったいような、奇妙な優越感があった。
考えてみれば、宥人は弁護士として社会的な立場があるだけでなく、数万人のフォロワーと熱狂的な支持者も持っている。学校もまともに出ていない夜職のおれとはそもそもつながりを持つことすらなかったはずだ。この肘の持ち主を知れば驚く人間も多いだろう。