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 相手が女でも、おなじような想像をしただろう。しかし、この場合に限っては、性別にかかわりないとはいえない。おれの性的興味の対象が女に限られるからだ。宥人が同性愛者だという意識が、そんな想像をさせたのかもしれない。不快ではなかったが、かすかな罪悪感と背徳感をおぼえた。
「ごめん、ミヤちゃん。煙草、頼める?」
 香里が席を離れ、足早にやってきた。客のものだろう空き箱を差し出してくる。
「わかりました」
「2つ、お願いね」
 コートを羽織り、スマホをつかんだ。
 店を出てエレベータのボタンを圧す。箱は最上階にいるようで、降りてくるのを待つ。客の買いものは珍しくない。以前は1階に自動販売機があったが、利用者の減少のためかすこし前に撤去されていた。おかげで煙草1箱のためにコンビニまで歩かなければならなくなった。
 エレベータがやってきた。扉が開き、中に入ろうと一歩踏み出したところで足を止めた。
 先客がいた。宥人とマオリが立っていた。向こうもおれに気づき、空気が張り詰めた。
 黙って箱に入った。そうしない理由がない。おれを頂角にして、右後ろにマオリ、左後ろに宥人といった奇妙な三角形。エレベータは3階、2階と地上を目指して下降していく。気まずい時間。永遠に感じた。
 右側には苛立ちを、左側には躊躇いを感じる。視線は感じない。どちらもおれのほうには顔を向けず、しかし確実に意識していた。マオリはどうでもいい。問題なのは宥人だ。5階の店にはしばらく行っていないはずだったのに、昨日おれとあんなふうに話をして、翌日にクソ男に会いに行く神経が理解できなかった。それも、おれの店には寄らずに。つまり、おれには知られずに会いたかったわけだ。
 エレベータが1階に到着し、ドアが開いた。おれは体を横にずらして、「開」のボタンを圧した。思いやりでもマナーでもない。ふだんそうしているから、自然と体が動いた。
 マオリが先に出て、宥人が後に続く。ふたりとも、おれを見なかった。
 また体が自然に動いた。気づくと宥人の手首をつかんでいた。引き寄せると、宥人の体は箱の中に引きもどされた。
 宥人は声を出さなかった。あっという間だった。マオリは気づかない。エレベータの扉が閉じていく。マオリの背中が細くなる。
 扉が閉まる寸前、間に腕が差し込まれた。マオリだった。ピアスだらけの顔を強ばらせ、両手で扉を開けて首を突っ込んでくる。
「おい、なんなんだよ」
 おれは無言で宥人の手を離した。宥人は困惑の表情を浮かべ、おれを見上げている。おれはエレベータの文字盤を見つめたままだった。
「なんか用かよ?」
 マオリがすごんだが、迫力不足だった。
「べつに」
「あっそ。……行くぞ」
 後半は宥人に向けていた。宥人はおれのほうを気にしながらも、マオリについてエレベータを出た。おれを警戒してか、マオリは宥人の腕をつかんで離さなかった。まるで犯罪者を連行する警察官のように、宥人を引き摺るようにして足早に去っていく。
「くそ……」
 無意識に舌打ちが漏れた。エレベータが再び上昇する。なにに対して苛立っているのか、自分でもわからなかった。宥人と親しくなったとたんに蔑ろにされた気がして不愉快だったのかもしれない。
 店のドアの前まできて、煙草を買っていないことに気づいた。宥人とマオリに気を取られて頭から消え去っていた。
 衝動的にドアを殴りつけそうになった。拳を固めたが、振り上げることはせず、胸の前で何度か掌を開閉して、気持ちを落ち着かせた。十代の頃は怒りに任せて後先考えずに行動して痛い目を見ることばかりだった。今もおとなになったとはいえないが、当時に較べればいくらか自制が効くようになった。
 エレベータで宥人の手をつかんだのはまずかった。あんなことをしてもなににもならないどころか、また宥人が八つ当たりされるおそれもある。
 まったく、どうかしている。こんなのはおれらしくない。
 コンビニに行くためにエレベータに乗り込む。今度は同乗者はいなかった。
 1階に降りた。扉が開くと、乗り込もうとしてきた人間とぶつかりそうになった。
「あ……」
 ほぼ同時に声を上げた。宥人だった。エレベータに乗り、おれの隣に立つ。
「……あいつは」
「帰ったよ」
「いっしょにどっか行ったのかと思った」
「タクシーに乗ったけど、すぐ降りた」
 無意識に4階を圧していた。エレベータを降りると、宥人もついてきた。
 予測不可能な宥人の行動に、おれは完全に困惑していた。戸惑いを隠しきれているかどうか、自信がなかった。
「お店、まだ開いてる?」
 ドアの前で、おれは振り返った。
「開いてるけど、閉店まであと1時間もないから」
「あ……そっか」
 宥人が俯く。
「じゃあ……」
「そこの居酒屋で待ってて。コンビニの隣の」
 おれに会いにきたわけではない。そう自分にいい聞かせたが、止まらなかった。宥人はにっこり笑って、頷いた。
 宥人に背を向け、ドアに手をかけて、おれは深いため息をついた。一言、呟いた。
「煙草忘れた」

 中野にあるアパートは築20年以上の老体で、つよい風の吹く日にはがたがた震えた。階段も年期が入っていて、一段上がるごとに軋んで老婆のため息のような音を立てる。
 六本木のクラブにいたときは経営する会社が業界大手だったこともあり、黒服にも寮があてがわれていた。退職と同時に退去を余儀なくされ、手持ちの貯金もなく、ろくに調べもせずに物件を契約した。彩ママが保証人になってくれた。以前の店を辞めたときにすくなからず揉めたため、それまで親しかった友人や目をかけてくれていた客たちは笑えるほど素早く離れていった。もともと期待していたわけではなかったが、それでも落胆した。
 かなり冷える夜だった。金曜の夜。店は賑わっていた。最後の客を帰したのは深夜2時を回った頃だった。片付けを済ませ、疲労困憊の体を引き摺って階段を上がる。
 エレベータなどあるはずがない。3階まで上がり、コートから鍵を取り出す。部屋には明かりがついていた。鍵を回すと、内側からドアが開いた。
「おかえり」
 深緑色のニットを着た宥人が微笑んでいた。

 最初に店で会ってから約半年。上階の店に行くついでに寄っていたはずの宥人は、いつの間にかうちの店に通うようになり、そのうちに店が終わってから食事をいっしょにするようになった。いつもの焼肉屋に飽き、深夜営業の店を開拓するのも億劫で、徒歩圏内のおれのアパートに場所を変えて、店が終わるまで待たせるのも気が引けて、合鍵を渡し、気づいたら毎日のようにおれのアパートで顔を合わせるようになっていた。
「おなか空いた? なにか食べる?」
「あー、うん」
 部屋に入ると昆布出汁のいい匂いがした。靴を脱ぎ、コートを脱いで、部屋の中央のソファに身を投げる。中央といっても、狭いワンルームだ。ベッドとソファとミニテーブルを置けば他にスペースはなくなる。
「すぐ準備するから座ってて」
 いわれなくても動く気はなかった。オープンからほとんど休むことなく立ち働いて、くたくただった。2月は多少暇だったが、年度末にかけて大忙しで、週末ともなれば常に満席の状態だった。繁盛するのはいいことだが、黒服がひとりでは負担も大きい。
作品名:EXIT 作家名:新尾林月