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「そんなことないってば。善くんのほうがかっこいいよ」
「おれは筋肉だけの馬鹿」
「そんなことない。背高いし、喧嘩もつよいし」
「喧嘩がつよくてもなんの意味もないだろ」
「意味あるよ。だれかを助けてあげられる」
「宥人さんのほうが助けてる」
 噛みあっているようですれちがっているような、それでいて、奇妙な連帯感があった。なんとなく、同時に顔を上げ、視線がぶつかった。
「……もっと注文する?」
 宥人がいって、おれも頷いた。テーブルを埋め尽くした皿はほとんど空になっていた。
「おれはもういいかな。宥人さんは?」
「ぼくもおなかいっぱい。おいしかった」
 宥人の皿も空だった。茶碗には米粒ひとつ残されていない。
 閉店間際なのか、アルバイトスタッフが姿を消し、仏頂面の店主が伝票を持ってきた。
「おいしかったです。ごちそうさまでした」
 宥人が声をかけると、わずかに唇を歪めた。笑ったつもりなのかもしれない。態度が悪いのはいつものことだ。宥人は気にしていないようだった。
「今日はおれが払う」
 財布を出そうとする宥人を制した。
「え? いいよ、そんな」
「いいって。おれが誘ったんだから」
「いや、ほんとに。客なんだからぼくが払うのが筋でしょ」
「いや、これアフターとかじゃなくてプライベートだし」
「それならなおさら」
「しつこいな、もう……」
 苦笑いする。どうやら宥人は強いだけでなくかなり頑固なタイプらしい。けっきょく、10分ちかいやりとりの末に、半額ずつを出しあうことで決着が着いた。他の客もバイトもすでに帰り、店主はカウンターの椅子にかけて、2本目の煙草に火をつけたところだった。
 店を出ると、小雨は本降りになっていた。大粒の雨がアスファルトを叩いている。時刻は深夜3時を回っていた。ふだんなら平日でも通行人が多い通りだが、さすがにこの豪雨のなかで歩いている人間はすくなかった。
「善くん、店もどるんでしょ」
 宥人が鞄から折り畳み傘を取り出した。
「これ、つかって」
「宥人さんが濡れるじゃん」
「タクシー拾うだけだから」
 宥人はなかば強引におれの手に傘を圧しつけた。おれはすこし躊躇して、いった。
「送るよ」
「え?」
 宥人は一瞬戸惑ったが、すぐに笑った。
「もしかして、殺害予告とかのあれ、気にしてる?」
「べつに……」
「だいじょうぶだよ。女の子じゃないんだし、ひとりで帰れる」
「関係ないだろ。男とか女とかは」
 焼肉屋の軒下で雨を凌ぎながら、おれは隣の宥人に向きなおった。
「こんな時間だし、あぶないから家まで送る」
 折り畳み傘を広げ、宥人の頭上にさしかけた。
「でもうち三軒茶屋だよ」
 たしかに、食事代を割り勘にしたとはいえ、往復のタクシー代を考えると、手持ちの金額は少々心許ない。
「帰りは歩く」
「明日も仕事なのに、そんなの……」
 不自然に言葉を切って、宥人はすこし考えて、いった。
「それか、泊まっていく?」
「え……」
 ほんの一瞬、沈黙が流れた。宥人の表情は傘の陰になってよく見えなかった。
「あー……いや、やめとくかな。明日も仕事だし」
「そうだね。ぼくも仕事だ」
 宥人はおれに背を向け、通りがかったタクシーに向かって手を挙げた。タクシーがウィザードランプを点滅させる。
「おいしかった。ありがとう。おやすみ」
 早口にいって、宥人は素早くタクシーの車内に体を滑り込ませた。窓越しに手を振る。水滴で埋め尽くされたガラス窓を見下ろし、おれも軽く手を振り返した。
 タクシーのテールランプが見えなくなると、おれは下唇を突き出して息を吐いた。雨はさらに勢いを増していた。背後で焼肉屋の看板の灯が消えた。
 心の裡に靄のようなものを残したまま、おれは傘の柄を握りなおし、豪雨のなかに足を踏み出した。

 翌日、宥人は店にこなかった。さすがに3日連続で夜の街に出るほど暇ではないのだろう。
 開店してしばらくは客がいないノーゲスト状態だったが、22時を回るとすこしずつ席が埋まりはじめた。1組目の客が帰り、手早くテーブルを片付ける。カウンターでグラスを拭きながら、おれは昨晩のことを考えていた。
 食事に誘ったのは、ふだんとはちがう時間に来店した宥人を訝しく思ったからだ。なにか話したいことがあるのではないかと思ったが、焼肉店での様子を見ていると、そういうわけでもないようだった。
 もうひとつ、宥人の仕事について知り、性的少数者と呼ばれる人々が社会で感じている疎外感を知って、自分の態度が宥人に不快感を与えたのではないかと考えたのだ。もちろん、差別的な感情はなかったが、おれにはどうも鈍感な部分があるようで、ときどき意図せず他人を傷つけてしまうことがあった。初対面のとき、いわゆる「そっち系」というような言葉をつかった記憶があった。しかし、その点も杞憂に過ぎなかったようだ。食事は和やかだったし、宥人も楽しげに見えた。
 ママのよけいな詮索のせいで気まずい瞬間もあったが、おれに対しても特別な感情はないようだし、宥人の態度にも違和感はなかった。
 唯一気にかかっていたのは、別れる間際、泊まりにこないかと誘われたとき、一瞬狼狽えてしまったことだ。
 戸惑ったのは性別や性質には関係ない。相手が女であってもおなじ反応をしただろう。しかし、宥人がおなじように考えたかどうかはわからない。
 終電もない時間だ。泊まっていけばと誘うことそのものに、たいした意味はないのかもしれない。宥人はおれに関心がないようだし、友人として声をかけただけなのだろう。深く考える必要はない。それでも、おれは帰宅後なかなか寝つけなかった。
 宥人が同性愛者だと知らなければ、気にもかけなかっただろう。しかし、おれは狭いアパートの部屋で何度も寝返りをうちながら、もし宥人の部屋に行っていたらどうなっていたか想像していた。
「ミヤちゃん」
 顔を上げると、スパンコールのあしらわれたロングドレス姿の美咲が腕を組んで立っていた。
「なにぼーっとしてんの。灰皿。早く持ってきてよ」
 ここのところ売上が落ちているせいか、機嫌が悪い。
「合図してるのに気づかないからわざわざ取りにきたんだよ。早くして」
「すみません」
 新しい灰皿を2枚重ねて手渡す。
「エロいことでも考えてたんじゃないの?」
 美咲はなにげなくいっただけだっただろうが、おれは慌てた。
「そんなわけないでしょ!」
「やだ、冗談だって。おっきな声出さないでよ」
 美咲は怪訝な顔をしたが、それ以上は関心を示さず、灰皿を手にさっさと席に戻っていった。
 背中が大きくひらいたドレスの後ろ姿を眺めながら、おれは周囲に目をくばった。客も女たちも会話に集中していて、黒服に注意を向ける者はない。
 カウンターに両手をつき、息を吐いた。美咲はママほど鋭くなければ聡くもない。ただの偶然だろう。それでも、自分でも気づいていなかった事実を指摘されたようで、狼狽した。
 おれはたぶん、昨日の夜べつの選択肢があったことを意識していたのだろう。そしてそこには、性的な要素もおそらく含まれている。つまり、宥人の部屋で濃密な時間を過ごす可能性を想像していた。
作品名:EXIT 作家名:新尾林月