Suffix
二学期からは、秋奈とわたしがご飯を食べる机に冬美は来なくなった。学年が変わってクラスが全員バラバラになってからはさらに接点がなくなり、受験勉強でそれどころでもなくなった。わたしは、切ると呪われる木や首無しライダーの霊とはついに無縁になり、全部振り落としたまま志望校に進学した。
スマートフォンが光り、わたしはアキナからの返信を開いた。
『今って、入れるの?』
その懐かしい言い回しに、思わず笑った。それは、わたし達が心霊スポットの噂を聞くたびに、最初に気にしていたことだったから。わたしは笑顔のまま、返信を送った。
『取材だからオーナーを探してもらってるとこ』
土曜は何もなく過ぎて、日曜の夜七時。ランちゃんからメッセージが届いて、開くと居酒屋で気の良さそうな壮年の夫婦とお酒を飲んでいる自撮りが添付されていた。ランちゃんは即席のイメチェンをしていて、髪は真っ黒だし耳のピアスも全部外されている。
『例のホテルのオーナー分かりましたよ』
さすが、ランちゃんはコミュニケーション能力が高い。取材の申し込みどころか、オーナーと一緒に居酒屋に行くぐらい仲良くなっているなんて。でもこの夫婦は、どこか見覚えがある気がする。わたしが返信を送ろうとすると、ランちゃんからのメッセージが追加で届いた。
『これって、お友達と同じ名前っすよね? 月島不動産ってとこなんですけど』
わたしはスマートフォンを持ったまま、その場から動けなくなった。洗濯機はマイペースに回っているけど、今は止められない。
内田ロイヤルホテルの持ち主が、冬美の親? 新しい事実が頭の中を駆け巡って情報を整理していくにつれて、合点がいった。冬美が我が物顔でバリケードを破ったり落書きしていたのは、親の会社の所有物だからだ。
『そうだね。今、飲んでるの?』
わたしがメッセージを送ると、三人でお酒を飲んでいるとは思えない速さで返信が届いた。
『はい! 先輩のこと、言っちゃっていいすか?』
『待って』
わたしはそれだけ返して、轟音を立てる洗濯機と目を合わせた。冬美とは苦いまま関係が終わってしまっている。古島明日夏という名前が月島家の中でどんな風に伝わっているか、知るのが怖い。
『冬美が元気だった昔を思い出すって。島トリオ?』
なんで過去形なの? わたしは手から滑り落ちかけたスマートフォンを両手で掴みなおした。同時にランちゃんから着信が入って、画面に触った手で通話ボタンを押してしまった。
「言っちゃいましたー。ずっとスマホポチポチも感じ悪いんで―。来てくださーい」
酔ったランちゃんの声。ちゃんと楽しそうで、営業用の酔い方だ。突然頼もしくなって、わたしは深呼吸をすると言った。
「お二人は、わたしにキレてない?」
「ぜーんぜん。もっと早く言ってよって、私が怒られてまあす」
「行く。場所送って」
わたしはスマートフォンを耳に挟んだまま布切れみたいなカーディガンをひっかけて、天パが明後日の方向に振り向けている前髪をヘアピンで抑え込んだ。休日なのにどこか張りつめていて化粧も落としていなかったけど、結果的に正解だった。
居酒屋の中は賑わっていて、ボックス席に座るランちゃんが首を伸ばして手を振った。向かい合わせに座る冬美の両親は、わたしの顔を見るなり口角を上げた。
「明日夏ちゃん。大人になったなあ」
中学校のときに家に招いてもらったことがあるけど、その日以来かもしれない。わたしが二人に名刺を手渡すと、冬美のお母さんが目を細めて言った。
「立派ねえ。桐ケ谷さんの上司なのね」
ランちゃんは本名が桐ケ谷蘭子で仰々しいから、名前で呼ばれるといつも恥ずかしそうにする。今回も例外ではなくて、叱られた子供のように肩をすくめた。お父さんが名刺をケースに仕舞いこんだところで、わたしは言った。
「突然、すみません。ご迷惑でなかったですか」
「全然。むしろ最初に明日夏ちゃんの名前を出してくれれば、ねえ?」
お母さんが笑いながら言い、微かに黒染めの匂いが残るランちゃんがビールを注文した。
しばらくの間、高校卒業から今までを結ぶわたしの話が続いた。そしてわたしが二杯目のビールに取り掛かったとき、ようやく内田ロイヤルホテルの話になって、お父さんが言った。
「冬美は、友達を連れていきたいってしきりに言っててね。それはよかったんだけど、誰かが裏の目張りを取っちゃったんだよ。それから色んな人が出入りするようになってねえ」
そのバリケを破ったのが都市伝説メーカーの冬美だなんて、言えないな。わたしがビールの泡を見下ろしていると、お母さんが言った。
「明日夏ちゃん、冬美と仲良くしてくれてたでしょ。あの子は中々友達ができなくてね、心配してたのよ」
わたしはランちゃんの方をちらりと見た。喉まで出かかっている質問を、タコの酢の物と一緒に何度も飲み込んでいる。わたしも同じだし、今聞きたいのはホテルじゃなくて冬美のことだ。お父さんは、わたし達の沈黙を『本題に入って』というサインだと思ったみたいで、咳ばらいをしながら言った。
「取材っていう仰々しいものじゃなくても、自由に見てもらったらいいよ。場所だけは書かないでもらえるかな」
「ありがとうございます。場所を非公開とする旨も、承知しました」
わたしが頭を下げると、お父さんは堅苦しい場が苦手なようで、ワイシャツの首元を引っ張って緩めた。
「鍵は明日取りにおいで」
そこで沈黙が流れかけたとき、わたしは今しかないと覚悟を決めて、お父さんの目を見据えた。
「冬美さんは、わたしも連絡を取れていないんです。今はどうしてるんですか?」
月島家には娘が三人いて、冬美は長女。だからか、二人のリアクションは『長女は今イチだったな』ぐらいの、軽いものだった。
「冬美は……。元々怖い話が好きだったり、暗い性格でね。県外の大学に進学はしたんだけど、二年ぐらいで辞めちゃって。本屋でアルバイトをしていることは知ってるし、連絡は時折来るけど。今の様子は正直分からない」
お父さんは言い終えると、ビールをひと口飲んだ。何度も人に言い聞かせたことがあるみたいに、慣れた口調だった。
「昔からだけど、変に触れると何も言わなくなっちゃう子だったから」
お母さんの手慣れた追い打ちがとどめを刺し、少なくともランちゃんの持ち弾はこれで尽きた。でもわたしには、ほとんど言い訳のような持ち弾がひとつだけ残っていた。
「わたし、二年生のときにちょっと喧嘩してしまって……。後味悪いまま終わってしまったのを、今でも後悔してるんです」
「そうなの? 何か言ってたかしら?」
お母さんは、お父さんの方を向いた。返事は言葉に出なかったけど、その表情が『お母さんが知らないことを、おれが知るわけない』と言っていた。お母さんはしばらく記憶を辿っていたけど、目を丸く開いた。
「夏休みに入る前かな? 怒って帰ってきたことはあったかも」
やっぱり、そうだったんだ。ランちゃんには悪いけど、これで取材拒否になっても、わたしとしては構わない。覚悟を決めると、お母さんはわたしの表情に気づいて、笑いながら首を横に振った。
「でも、明日夏ちゃんじゃないわよ。冬美が怒ってたのは、もうひとりの子だわ」