Suffix
『私たちで作るしかねーか』
本当は七不思議ぐらい作りたかったけど、基本ビビりなわたしが付き合ったのは一回だけで、それが上手くいったからこそ二度と手を出さなかった。標的となったのは、郊外にぽつんと建つ『内田ロイヤルホテル』という名前の廃墟。ベニヤ板で目張りされていて、不法投棄パトロールの看板が入口に建ててあった。決行の日は冬休みの初日で、リュックサックを背負った冬美は我が物顔でバリケードを跨ぐと、わたしを手招きした。普段の冬美は、自分の姿格好が一ミリでも狂うとすぐに修正するような几帳面な性格だったけど、あのときは着地したときに銀縁眼鏡が少しずれて、いつも揃えられていた前髪にも分け目ができていた。
二人で息を潜めながら入り込んだ建物の中は、淡いオレンジ色の西日が窓から斜めに差し込んでいて不思議と怖さはなかった。とにかくフルカラーで、鮮明に記憶している。一階の中央部分から伸びる豪奢な階段を見上げながら、冬美が言ったことも。
『ここは、迷路みたいになってて。上がるときはこの階段を使えばいいんだけど、客室から一番近いのは反対側の階段でさ。それをそのまま辿って下りると、一階を通り越して地下に着いちゃうんだわ』
冬美は何でも計画するタイプで、前の週に下見済みだった。わたしと一緒に驚いたりしたいのではなく、あくまで『楽しい』ことが保証されてから誘ってくれる性格。実際最上階まで上がって、目の前にある階段を下りていくと、一階を通り越して真っ暗な地下に着いてしまった。冬美はリュックサックから懐中電灯を取り出すと、雨漏りでぐしゃぐしゃになった宴会場を照らした。
『よっし、この壁にしよ』
わたしに懐中電灯を手渡した冬美は赤のスプレー缶を取り出すと、止める間もなく大きな字を書き始めた。誰も見ていないし懐中電灯のスイッチが切れたら真っ暗になるのに、わたしは自分の手が一番悪いことをしているみたいに、ドキドキしていた。でも、出来上がった落書きを見たときに思わず口角が上がったのは、わたしが冬美と同じ感性の持ち主だったからに違いない。今思い返しても、冬美は人を怖がらせる天才だった。
『おまえはまちがえた』
あれをさらさらと書いてのけた冬美が編集部にいたら、何本も面白い原稿を書いただろう。最寄り駅に着いたわたしは、アキナに返信した。
『今、駅に着いたよ。ブラック企業とは言わせねーよ』
『家に上がってひと息つくまでは、真っ黒やわさ』
就職して世界中を飛び回る秋奈は、どうしてもアキナとカタカナで呼んでしまう。高校時代のトリオではなく、もう大人の女性だから。一度メッセージにカタカナで名前を書いてからは、向こうもわたしのことを『アスカ』とカタカナで呼ぶようになった。どっかでお茶したいねとよく話題に上がるものの、残念ながら今のところ顔を合わせるどころか、国際電話になるから通話自体も叶っていない。それでもこのやりとりは生命線というか、昔と今を結ぶ大事な糸だ。
高校時代のわたしは、秋奈との付き合いは高校を出るのと同時に切れるだろうと、なんとなく思っていた。何故なら彼女は心霊にはあまり興味がなくて、それにハマっているわたしや冬美と話すのが好きみたいだったから。秋奈は当時から明るくて友達も多かったし、誰に対しても気さくだった。わたしと冬美は常に自分の世界に入り込んでいて、共通の話題にどっぷり浸かっていたから、その関係だけは変わらないと思っていたんだけど。蓋を開けてみると、途切れたのは冬美との付き合いだった。
わたしはアパートの部屋に滑り込んで、アキナにメッセージを送った。
『いやー、長い一日だったわ。ちょっと怖い話のアンケートなんだけどさ。三メートルの化け物がいるって言われたら、信じる?』
『誰がどんな感じで言うかによるねー。アスカが言うならマジかーってなるかも』
『わたしの言うことは信じるんだ?』
『うん。その代わり、言うときにちゃんと三メートルになっててよ』
『それは話を作るまでもないな。わたしが都市伝説じゃん』
テンポのいいやり取りが続くし、それに対して嫌な顔をする『同居人』がいないのも、今は割と晴れ晴れした気分だ。去年までは一緒に住んでいる彼氏がいたけど、少なくとも今時点では別れて正解だった。これから後悔するかは、自分でも分からない。
初めて彼氏ができたのは、高一の二学期だった。もちろん、先日別れたばかりの彼氏とは別人だし、その交際期間はかなり短かった。でも、椎野という名前はよく覚えている。親しくなったきっかけは、文化祭での共同作業。わたしは当時、本当に化粧気もなくて、髪型も天然パーマをあちこちピンで押さえただけの有様だった。他のみんなが創意工夫して可愛くしていた制服も、わたしはカタログの見本みたいにそのまま着ていて、目立たない外見を維持していた。でもそれを『なんか自然な感じで、でもめっちゃきちんとしてるよな』と言って、交際直前だった椎野くんは褒めてくれた。とにかく恋愛感情を持つと、すっぴんと天パすら最強の属性に変換されるらしい。外見に自信がない代わりに歩く都市伝説辞典だったわたしとしては、そっちの知識を褒めてほしかったけど、問題がひとつあった。椎野くんは、怖い話がとことん苦手だったのだ。
『こんな時間まで残ってたら、色々連れて帰っちゃうな』
交際がスタートして文化祭の準備で遅くまでかかったとき、確かこんなことを言ったと思う。そこから会話の火花が飛んで『心霊おもしれーよなー』というリアクションが返ってきて、二人で大盛り上がりする。勝手にそう期待していたけど、椎野くんは真っ青になっただけだった。
そして、夏秋冬の『島トリオ』にヒビが入ったのは、まさにそれが原因だった。
多分、わたしは恥ずかしくなったのだと思う。大人になるために破らないといけない殻は確かにあって、その殻を構成するのは昔から慣れ親しんできた『地下に存在する巨大なエイリアンの施設』や、田舎の山道に出現する『絶対に乗せてはならない白い服の女』だった。今になって分かることだけど、ここから一度抜け出さない限りは椎野くんと対等な関係になれないと、頭が勝手に切り替わってしまったのかもしれない。
酔いはそんなに回っていないし、空腹でもない。でもランちゃんとの会話で出てきた『不気味なもの』が頭の中を自由自在に巡っていて、関係のありそうな記憶を見つけては手をつなごうとしている。アキナから返信が来ていて、自分が話題を振っていたことを思い出したわたしは、クッションに腰を下ろした。
『怖さの正体って多分、それが本当にいるかもって感情だよ。思いこんじゃったら、終わり。ロイヤルも、未だに尾ひれついてるじゃん』
アキナからロイヤルという単語が出るなんて。それはまさに、冬美が『おまえはまちがえた』と書いた内田ロイヤルホテルのことだ。言うまでもなく、島トリオになってから秋奈も連れていったし、予備知識なしであの落書きを見せた。リアクションは百点満点で、わたしが懐中電灯を振った先に書かれたメッセージを見た秋奈は腰が抜けたようになった。もちろん友達だから種明かしはした。何年か前にわたし達が書いたんだよと言うと、秋奈は怖さの反動で怒ったみたいな呆れ顔になっていた。