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思いやりの交錯

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 ただ、どこまでが感覚の中にあったことなのかということをハッキリと覚えていない。だから。思い出すのは、すべてが最初からであった。
 自分が大学生になっているのに、高校時代に戻って、思い出そうとするのだから、かなりの無理が利いているのは分かっている。
 大学時代というと、高校時代と違って、好きなことが何でもできるという感覚である。高校時代の思い出は、
「どんなに頑張っても、身動きが取れない」
 と思っていたはずなので、何でもできる大学時代に思い出して想像するのだから、逆に、その想像はリアルであり、
「高校時代に味わえればよかったはずなんだ」
 と感じることだろう。
 これが、大学時代と高校時代の感覚の違いなのだ。
 大学に入ると、最初に友達を作ったのは、その時の自分が、他の人から比べて遅れていないか? つまり、乗りおくれていないか? ということを知りたかったからである。
 人に話を聞くことで、もし乗り遅れていれば、
「今からでも間に合う」
 という思いを持って、友達からいろいろ吸収することができると思ったからだ。
 友達と話をしていて、
「乗り遅れている」
 という感覚はなかったが、どこか、話が異次元のようで、
「こんな新感覚は初めてだ」
 と思ったのだ。
 その友達の感覚が、ずれているのか、それとも、やはり自分が乗り遅れているのか、他に友達をたくさん作れば分かることであった。
 だが、ここで少し失敗したことがあったのだが、それは、
「友達を作りすぎてしまった」
 ということであった。
 確かに友達を作っていろいろな話を聞けば、それだけ吸収できるものが増えるのであるが、たくさん友達を作りすぎてしまうと、今度は判断材料が増えすぎて、頭で理解できる部分を超越してしまうということだった。
 誰の言っていることが正しいのか、判断がつかなくなる。だが、そのうちに結論として感じるのが、
「自分が正しいと思ったことが正しいんだ」
 としか思えないということだった。
 たくさん考え方がある中で、中には自分と同じ考え方の人もいるだろう。その人とつるめばいい。
 ただ、もう一つの考え方としてあったのは、
「たくさん考え方はあるだろうが、その中でも一番多かった意見が正しいのではないだろうか?」
 という、いわゆる多数決というべきか、民主主義的な考え方である。
 高校時代までのマサトであれば、そう思っていたかも知れない。
 だが、大学に入ってからできた友達と話をしていると、
「こんな考えもあるんだ」
 という新感覚を覚えてしまったことで、
「少数派であっても、感動したことであれば、無視することはできない」
 と感じたのだ。
 つまりそれは、
「多数決の否定」
 であり、民主主義の考え方をぶった切ったかのような感覚であった。
 その時感じたのは、
「俺って、天邪鬼だったんじゃないか?」
 という思いだった。
 この感覚は、その時初めて感じたものではなかったはずだ。それが、小学生の頃だったのか、中学時代だったのか、高校に入ってからのことだったのか覚えていない。
 ただ、その時のどこかで初めて覚えた感覚を、ずっと忘れてはいなかったように思えるのだった。
「そういえば、日本人というのは、元々、判官びいきなどと言って、弱い者の味方という風潮があるではないか」
 と思っている。
 判官びいきという言葉は、元々は、治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)の時代におけるヒーローとして君臨した、源義経に対しての言葉である。
 天才的な戦術を用いて、戦に連戦連勝してきた義経であった。ただ、人によっては、ただ、
「戦争を知らないだけのお坊ちゃま」
 と言われることもある。
 なぜなら、当時の戦というのは、まず最初、お互いの代表が名乗り合っての一騎打ちから始まるのが通例だったものを、いきなり攻撃を仕掛けたり、奇襲攻撃を仕掛けるという、いわゆる、
「卑怯なやり方」
 をするものだから、相手も狼狽するのは当たり前のことだったはずだ。
 そういう意味で、
「戦を知らない」
 と言われたのだろうが、ただ、彼の場合は戦を知らないだけではなく、政治的なことにも疎かったのだろう。
 彼の悲劇は、京に入り、木曽義仲を討った功績で、後白河法皇から、検非違使という、京の街の警護をする役職を貰ったのだ。
 しかし、義経だけではなく、鎌倉から派遣された武士は、
「いくら相手が朝廷や法皇であっても、鎌倉の許しなくして、勝手に官位を授かってはいけない」
 という命令だったのだ。
 それを義経は無視して勝手に官位を受けてしまった。
 手柄に対しての報酬であるから、頼朝も許してくれるだろうと思ったのだろうが、坂東武者を束ねている頼朝にとって、この命令無視は許されないことであった。
 義経は、頼朝の怒りから、一時は平家追悼から外されるが、結果、思うように攻められない源氏の兵を鼓舞するために、再度、追討軍に加わり、平家を壇之浦で滅ぼした。
 鎌倉に凱旋をした義経だったが、腰越から東に入ることを許されず、失意の元、京に戻った。
 そこで、後白河法皇に、頼朝追討の院宣を賜り、完全に対立したのだ。
 頼朝としては、好機到来と見て、義経追討、さらには、全国に守護、地頭を置くことで、武家政治の始まりを宣言することになる。ここに鎌倉幕府の誕生だということだ。
 義経は、結局、育ての親である、奥州藤原氏の元に逃げるが、最期には藤原兄弟の裏切りで、自害することになった。その藤原氏も鎌倉軍に攻められて、ここに鎌倉幕府の、全国統一がなったということだ。
 ただ鎌倉幕府においての源氏は悲惨だった。2代翔ぐ、3代将軍ともに、暗殺され、そこで源氏の血が絶えてしまった。合議制で成り立っていた鎌倉幕府が、北条氏による独裁政治に変わってしまったのだった。
 要するに、義経というのは、
「悲劇のヒーロー」
 として語られ、その時の通称が、
「九郎判官義経」
 だったので、
「判官びいき」
 ということで、弱い者の味方をするという精神が、日本人には根付いているということになったのだろう。
 ただ、それはいわゆる
「少数派」
 だともいえるのではないだろうか?
 というのも、普通であれば、強いヒーローを求めるのが、人間としての真理ではないかと思うからで、義経という人物も、伝えられてきた、平家物語であったり、吾妻鏡などの、戦記物や歴史書などに書かれていることを伝え聞いて、その悲惨さに涙し。さらには、
「強いのに、滅びなければいけなかった」
 というギャップに惹かれるということもあるのだろう。
 少し違っているかも知れないが、義経が、
「美少年であった」
 という逸話から、
「ギャップ萌え」
 なるものがあったのかも知れない。
 ただし、伝わっている義経の肖像画を見る限り、とても、美少年とは思えないと感じるのは、マサトだけであろうか?
 とにかく、義経に対しての伝説は、ある意味、
「どこまでが本当なのだろうか?」
 という、逸話として言われてきているものと、歴史を勉強することで感じることの間に、あまりにも違いが感じられるのも事実だった。
作品名:思いやりの交錯 作家名:森本晃次