あみのさん
10 電車の音が催眠術のように
亜美乃の頬を叩いた翌日、三郎はどんな顔をして顔を合わせればいいのだろうと思いもしたが、どこかさっぱりした気分もあった。それはもやもやとしてものが無くなって、その分そこに穴が開いているという感じでもあった。
亜美乃もまたふっきれたような顔をしていて、昼休みにたまたま二人になったとき、
「ヘヘ、ちょっと口が大きくなったかな」と言って叩かれた場所を指さしながら言った。
それは、以前「もうちょっと口が大きいほうがいいなあ」と言っていたことからくる。叩かれて口が大きくなるわけは無いのだが、心にわだかまりがあって口をすぼめていることが多かったのが、口がゆったりと微笑むようになって横に広がって見えるということだろう。実際、三郎にもそんな風に見えて、「ほんとだ」と言って、二人で笑ってしまった。
そのまま、二人は別の行動をとってただの社員同士になる。三郎は、これからまた亜美乃とスタートしなおせるような気もしてきた。しかし、亜美乃の化粧も髪型も出会った頃とは別人のように変わっている。それは三郎の未練を少しずつ薄めて行くような効果もあった。
秋になって、会社内で同年代の七人が集まってハイキングに行く相談をしていた。その中で亜美乃は三郎のリーダーシップの不足なことについてかなり手厳しいことを言った。それを聞いていた人生経験の豊富な上司は「あれ、実は好きなんじゃないの。そんなにきついことをいうのは」と亜美乃をからかった。亜美乃はちょっと赤くなって、打ち消していたが、三郎には心当たりがあり、亜美乃がまだ自分のことを気にしていて、全部を嫌いではないことを知って嬉しかった。
三郎にもそれは少しずつ解ってきていたことである。亜美乃は父親と生活した記憶が無い。女ばかりの家庭で育って、男というものに、昔風の強くて威厳があって優しくてという理想を抱いている。三郎と付き合っていくうちにだんだんと物足りなさを感じていたのだろう。