あみのさん
8 サマータイムの歌が聞こえる
夏も終わりに近い頃、三郎と亜美乃は喫茶店で話をしていた。亜美乃は色々なことを話した。しかし、だんだんと三郎は自分に自信がもてなくなってしまった。三郎は亜美乃に目を輝かして話すことが何もない。三郎の耳は亜美乃の話を拒否して、喫茶店の音楽を聴いている。そのギターのイントロはせつなく、心にしみた。やがて嗄れた女性の歌が始まった。その心の底から搾り出した感情そのものの歌声に三郎は衝撃を受けた。
どのくらいぼーっとしていたのだろう。亜美乃が複雑な顔でこちらを見ている。三郎はもう何も話したくなくなって、この場を去りたかった。「ちょっと気分が悪くなって…」とそれだけを言うと、伝票を取り、出口に向かった。後ろでちょっと間があり、亜美乃が慌ただしく帰り支度をする音がした。
喫茶店を出て三郎は駅に向かった。しばらく歩いてから、もう夕方であることと、頬に当たる風が涼しくなっていることを漠然と感じた。季節に合わせるかのように、自分の中で情熱や愛の温度まで下がってしまったような気もする。
亜美乃は怒っているだろうなという思いが頭をかすめる。そのままアパートに帰る気にもなれなくて、三郎は足の向くまま、まっすぐ前だけを向いて歩いていた。果物屋の店先で店員が大声をあげてぶどうを売っている。梨が並んでいて、スイカは奥の方に少しだけ並んでいた。ああ夏も終わりなんだなあと感じた。
小さな公園にブランコとベンチがあり、街路灯に照らし出された木々の緑がきれいだった。少し暑さにやられたような葉っぱの匂いがした。三郎はベンチに腰を下ろした。街の出す音達が小さく聞こえて来る。目の前の砂場が明かりの明暗で複雑な線を描いている。
そこに人影がだんだん大きくなって、三郎は眼をあげた。
亜美乃が近づいてきた。無言で三郎の側に坐ると、目の前にレモンを差し出した。それは半分に切ってあり、爽やかな匂いがした。亜美乃の手には果物屋の買い物袋があって、そこには数個のレモンが入っていた。
「1コだけ店員に切ってもらっちゃった。ちょっと気分がすぐれないとき、これを囓るとすっとするんだよ」と言う。三郎は軽く頷いてレモンを囓った。苦さと酸っぱさが口に広がり、少しだけ爽やかになり、少しだけ複雑な気分になった。自分の胸のうちをどう説明したらいいのだろう。三郎はレモンを口にして少しずつ吸い込みながら前を見ている亜美乃の横顔を見た。出会った頃の明るさと子供っぽさとは違う、もう大人の顔だった。