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桐生甘太郎
桐生甘太郎
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元禄浪漫紀行(51)~(57)【完結】

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第五十四話 古い日記






「うちって家系図とかあったっけ?」

俺がそう聞くと、父は「いいや」と言った。それから、出かけていた荷物をほどいて財布や煙草を取り出しながら、こう言う。

「それは知らないが、土蔵の中にある箪笥には、先祖代々の品がいくらかあるはずだ」




土蔵の門を開けてもらう時、俺はずいぶん面倒がられた。「なんでそんな事をするんだ」と何度も聞かれたけど、「とにかく、お願いだよ」と言う他なかった。

父は土蔵の鍵を探すのに二十分掛け、錆びついて上手く動かない鍵を開けるのには二分を要した。

土蔵の中に踏み入った時、梅雨どきの蒸し暑い日だったのに、中は冴え冴えと冷えているのが分かった。でも、澱んだ空気は埃の匂いがした。


暗くてよく見えなかったが、土蔵の中には様々な物があった。うちは曽爺さんの代まではまだ農家をしていたから、それらの道具、それから、甲冑や刀が大した気遣いもされずに放っておかれていて、土蔵の隅に、すのこの上に置かれた箪笥があった。

俺が箪笥を開けてみようと懐中電灯に火を灯す前に父は引き返していき、俺は一人で口に懐中電灯をくわえて、一段目の引き出しを開けた。

一段目には着物が詰まっていて、どれも取るに足らない普段着のようだった。俺はちらっと江戸時代の事を思い出しかけたが、気を取り直して二段目を開ける。

二段目は、どうやら子供のおもちゃが入っていたようで、けん玉やら凧やらが雑多に詰め込まれていた。それもすぐに閉じて、今度は三段目を開けた。すると、どうやら目当てだった、書物の引き出しに当たった。

“家系図だったらやっぱり巻物かな。でも、父さんも見た事ないと言っていたし…”

俺は、懐中電灯を引き出しの中に置いて中を照らせるようにして、両手で様々な書物の表紙を確かめた。

“日本料理絵図”…違うだろう。

“農民心得触書”…ちょっと興味はあるけど、これは後だ。

何冊か確かめても、うちの家系を話題にした本はなさそうで、俺は諦めかけた。でも、隅にぐちゃっと寄せられていた小さな冊子を手にした途端、俺は驚いた。

そこには二冊の、同じような糸閉じの本があった。片方の表紙には「おやえ」とあり、もう片方は「善助」。どちらも筆文字だった。

普通なら読みづらい草書も、俺はすらすらと読める。だからまずは、「おやえ」の方から開いてみた。

紙魚が這う本はどうやら日記だったようで、粗末な紙には、手書きの筆文字が並んでいた。

“七月二十日
いっかうにくらしが良くならず、納豆屋も相手にできない。
善助と三郎太はどうしてゐるか。
質におくものとてあらず”

“八月二日
手内職はこれがよいあれもよいと言われたが、それにくわえ袖乞いに出ねば、生きてゆかれぬ”

その日記はやけに日にちが飛び飛びだったが、どうやら「おやえ」は「善助」の母で、父はもう居なくて、善助の兄か弟が「三郎太」だろうという事が分かった。それで俺は、おやえの方は後にして、「善助」と書かれた日記を開いてみた。


善助の日記はやけに字が汚く、それに、書き間違えも多かったので、読むのが大変だった。でも、あるところで俺は内容に釘付けになった。

“一月二日
三が日までのやすみで皆飲んでさはがうと云い、仲間と遊びに出た時、よしはらへ連れられた。
こんなところへ囲われているような女だらうかといううつくしい娘ばかりで、己はたいそうおどろいた。”

“一月三日
こんどは一人でさかだいへおとずれ、昨日と同じ春風をなざした。
春風は己をみてうれしそうなかおになり、またなざしておくんなまし、と笑ってくれた。”

「春風」という字を見た時、俺は狂いそうなほど驚いて、「あっ」と声を上げた。

“四月八日
銭がなくてしばらく行けなかったさかだいへまいると、春風はよろこんで寝間にいれてくれて、己はいくらか身上話をした。春風はおれのくらしに同情してくれて、己たちはたゝ゛ねむった。うれしかった。”

“ 二月に一度ほどしか春風にはあえないが、店に行って己がことわられたことはない。
春風はある晩、外へ出たらぬしにひもじい思いはさせんせん、わちきを女房はんにもらってはくれんせんかと云った。”

俺は、熱してくる頭を気にする事も出来ず、わやくちゃの文字を読み続けていた。

“春風は、きっぷのよい、つつぱつた女にみえるが、根はとてもやさしく、きつちり己のめんどうは己でみる、いい女だ。いや、とても好い方だ。己はあの方といつしょになりたい、めおとになりたい、あの方が毎晩すこしでも己のことをあはれんで下さるなら、己はなにもかもを投げ出すだらう”

「おかね…」

俺はすべてをすっかり見通し、そこにまた彼女の姿を見つけて、名前を呼んだ。でも、最後のページは、読むのが憂鬱だった。


“おかね、すまない”

そこにはそれだけが書かれていて、俺は、寒い冬の日に逝ってしまった「善さん」の姿を思い浮かべた。その後は、いくらめくっても何も書かれていなかった。俺は、歴史の符合を目撃した大きな衝撃を受けていたが、「おやえ」の日記を手に取ろうとしていた。その時、後ろから突然こう聴こえてきた。

「昭、昼飯だぞ」

それが父の声だと分かるまで、俺は辺りを少し見回した。俺が想像していた、おかねと善さんが話し込んでいた廓の景色や、善さんの裏長屋などの光景は消え去って、土蔵の中が蒸し暑くなっていた事に気づいた。

「あ、ああ、うん!」



昼食の菜は、鯖の味噌煮だった。俺は仏間で母に挨拶をしてから、食卓に就いた。

味噌汁を吸い、鯖の味噌煮を口に運ぶ。

“ああ、鯖の味噌煮なんて食べたのはいつぶりだろう…美味しいな…”

その気持ちを口に出したところで、父には理解が出来ない。だから俺は黙っていた。でも、父はふっと味噌汁椀から顔を上げ、話を始めた。

「お前に話したい内、一つはもう言ったが…」

“母さんの事…”俺はそう思って、下を向いた。

「もう一つは、俺の事だ」

その声に顔を上げると、父は俯いていて顔色がよく分からず、でもとても深刻そうな眉間の皺だけが見て取れた。俺は「うん」と相槌を打つ。

「来月、手術なんだ」

「えっ…」

驚いた俺は声を詰まらせ、その時なぜか、仏壇にある母の遺影を思い浮かべた。父は少し黙っていたけど、もう一度顔を上げて俺を見ると、こう言った。

「胃がんと言われてる」

まさかそんな話だったなんて思わなかった。父は、思っていたよりも元気そうなほどに見えたから。俺は、襲い来る混乱を口に出さないようにするため、黙っていなければいけなかった。

「手術ですっかり良くなるもんかは、あまり分からないらしい」

「そう、なのか…」

父は一つ頷くと、元のように汁椀を口元に引き寄せる間で、「だから、俺の事も覚悟しておけ」と言った。俺は、何も言えなかった。