元禄浪漫紀行(51)~(57)【完結】【改訂】
夢の中で、俺はおかねの死にざまを見ていた。
「ごほん!ごほん!」
おかねは盛んに咳をし続け、彼女の表情は苦悶に歪んで、息も出来ない苦しみに喘いでいる。
「おかね、しっかりしておくれ…おかね…!」
もう何をする体力もない彼女の体は、それでも吐き出させよう吐き出させようと彼女を苛む。俺はそれを見せつけられていて、“もう苦しめないで”と強く願うのに、彼女は血を吐いた。
「おかね!」
「げほっ…ごほ…」
喉に血痰が詰まっては大変だと、俺は彼女の背中を叩こうと、腕を引っ張って体を持ち上げようとした。でも、おかねは全く力を抜いて、べたっと布団に寝たままだった。
「おかね、痰が詰まっちゃ大変だから…」
そう言い聞かせても、彼女は何も言わないし、動かない。痰が詰まって苦しげにもがく事もなかった。
「おかね…?」
俺が彼女の顔を見ると、僅かに眉間に皺を寄せ、口元を血で濡らしたまま、彼女は目を閉じていた。
その様子を少し見て、俺にはすっかり分かってしまった。
理由もないし、何を知っていたわけでもないのに、彼女がもう動かないのを俺は分かってしまった。
俺はしばらく絶句して、動かない彼女の体を見詰めた。まるで時が止まったようだった。
俺は恐ろしかった。彼女の体が意思を失くした抜け殻となってしまった事などもう分かっているのに、それを理解するのが怖かった。そして理解した時、悲しみがわっと溢れた。
「や…いやだ…おかね…」
俺は泣きながらおかねの着物の襟首を掴み、彼女の体を揺らして名前を呼ぶ。おかねの首はガクガクと揺れ、枕から頭が落ちても、彼女は起き上がらなかった。
「おかね…まだダメだ!ダメだ、おかね!」
もう届かないのを知りながら、俺はいつまでもそう叫んでいる。その内に長屋の住人が俺の叫びを聞きつけ飛んでくるまで、俺は彼女にしがみついて泣いていた。
はっと気が付いた時にはもう朝だった。俺は少し息切れをしていて、汗をかいていた。
「おかね…」
夢の光景を思い返し、彼女の名前を呼んだけど、俺は今ある生活のため、布団を手で擦り、感触を確かめていた。
二階にある自室から階下に降りていくと、父が朝食を作っていた。
「おはよう」
父は振り向かず、鍋の中を見つめている。
「おはよう」
食事をする気にはなれなかったけど、俺はなんとか食べ物を口へ運ぶ。その日の朝はカレーだったのに、嬉しい気持ちは湧いてこなかった。
食後、父は「出かけてくる」と言って居なくなり、俺はぼけっとキッチンで煙草を吸っていた。
“江戸では刻みを煙管で吸うから、手数がかかったよなあ…”
そう考えていると、おかねが煙管をくわえ、火鉢へ屈み込む様が目の前に浮かんでくる。でも、彼女はもう居ない。よしや生きていたとしても、絶対に会えない。
俺は母も妻も亡くし、子供達にも会えなくなってしまった。
“みんな…あのお香のせいだ…”
俺はすべての始まりを思い起こし、良い香りがしたはずの粉の香が憎らしくて堪らなくなった。それから俺は、思い出の中を旅した。
おかねに拾われ、「善さん」に似ていた俺は気に入られて下男として働き、一緒に病を乗り越え…おかねが吹っ切れてからは恋仲となり、夫婦となって…とそこまで考えた時、俺は忘れていた事を思い出したのに気づいた。
“そういえば、「善さん」とは、何者だったのだろう?俺にそっくりとおかねは言っていたけど…”
もう何を考えても何もこの手には還らないのに、もしや思い出を確かに出来やしないかと、俺は帰ってきた父にこう言った。
「ねえ、うちって家系図とかなかったっけ」
作品名:元禄浪漫紀行(51)~(57)【完結】【改訂】 作家名:桐生甘太郎