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桐生甘太郎
桐生甘太郎
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元禄浪漫紀行(51)~(57)【完結】

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第五十五話 夢うつつ






「それで、お前、二十五年もどこに行ってたんだ」

俺は、父親にそう聞かれた時何も言えなかった。おかねに事情を話せなかったのと同じ理屈で。

もし「江戸時代に居ました」なんて言ったら、病院に連れていかれてしまう。それに、誰に言ったって確かめようもない事なんだ。俺も、戻れない時代なんだ。話すだけで悲しくなってしまう。

「ごめん…父さん…」

父に謝りながら、俺は元居た時代の事を思い浮かべていた。

“子供達はあれからどうなっただろう。秋夫は縁づいただろうか。おりんは幸せに暮らしただろうか。おかねの墓参りをしてくれる人は居るのか…でもこれは、誰にも話せない事なんだ。そうだ、なかったも同じ事だ…そんな!俺の幸せは、すべて奪われてしまったというのか!”

自分が子を持つ父親になっていた事も、優しい妻を持っていた事も、娘が嫁に行き、息子は真面目な商売人となった事も、みんなみんな、この現代に持ち込める話ではない。俺は心細くて、悲しくて、涙が出た。だって、あの時代のように、「心配おしでないよ、お前さんはあたしがすっかり面倒を見るからさ」と言ってくれたおかねは、ここには居ないんだ!

「…まあいい。でも、なるべく早めに仕事を探してくれ。俺は今、年金暮らしだからな」

父は何か言いたげだったけど、俺がいつまでも泣き止まなかったからか、そう言った。



俺はなんとか仕事を探し当てた。それは地元にある大きな工場での、ライン作業だった。特に特殊な技能を必要としないので、給料は安い。仕事は単調だが、重い物を扱うため、体は大層疲れた。歳をとっていたので、腰も心配だった。

日がな一日、意思を持たないロボットの仕事に手を加える。それだけだ。俺は単調な作業に白昼夢のような感覚をよく覚え、そうするといつも、“鍋町”や“紺屋町”の景色を思い浮かべた。

荒っぽい職人連中が、半ば怒鳴り合うかのように喋っていて、手元でずっと仕事をしている。

別に、どちらがいいとか、悪いと言うつもりもない。でも俺は、もう帰れない時が心の中で輝くのが、切なくて仕方なかった。



父は今、病院に入院し、毎日モルヒネを投与されている。俺はそこに見舞って、父の頼みをよく聞いている。


父のがんは、末期の物だった。発見は遅れ、体調を崩し掛けてからようやく分かり、手術をしようとした時に初めて、全身に転移しているだろう事を医師は見たのだった。



「父さん、おはよう」

その日は日曜で、工場が休みなので、いつも通りに父を見舞った。

「おお…」

やや寝ぼけたような様子の父に乞われて、俺は足のマッサージをした。父の肌は黄疸が進み、足は酷く浮腫んで辛いらしい。

「何か食べたい物とか、ある?」マッサージの合間に、父にそう聞いた。

父はぼんやりとしたままで、譫言のように、「羊羹が食べたいな」と言った。



俺は、病院からさほど離れていない和菓子店で羊羹を一本丸々買い、父の病室に戻ろうとしていた。その時、滅多に動かない俺のスマートフォンがコール音を鳴らす。

画面を見てみると、知らない番号からだったが、市外局番は俺が居住している地域の物だった。市役所かなんかかなと、俺は「通話」をタップする。

「…はい、もしもし」

俺が用件を訊ねる間もなく、神妙に喋っているらしい女性がこう言う。

「矢島さん、お父さんのご容態が急変しました。すぐにお越し出来ますか?」

俺はその時、ピインと耳鳴りがして、一瞬だけ、自分が居る世界が絵空事のように感ぜられた。でも、気を取り直して、なんとか返事をする。

「すぐ、行きます」


病室に入った時、父は様々な計測器類に取り囲まれ、俺が近づいていっても、もう意識もないようだった。

でも、父は必死に息をしようと喘いでいて、ぼんやりと開けた目は、涙に潤んでいる。それはもしかしたら、苦しみのためだったかもしれない。俺は父に声を掛けた。

「父さん、羊羹買ってきたよ、父さん…」

父は返事をせず、何も見えていないのか、俺の方も向かない。もうすべてが知れているのに、俺達生きている人間には、引き留めるしか道がない。

“いくら引き留めたってもう無駄なんだ…父さんは死んでしまうんだ…”

「父さん…」

俺は最後に一度「父さん」と呼んでから、ただ父の傍で、父を見守っていた。父が苦しむ様子は胸に堪えたけど、それでもずっと父を見詰めていた。父が安心して旅立てるように。

ピー、という音がたくさんの計器類から鳴った時、俺はベッドにばたりと顔を伏せ、その場で少し泣いた。




俺は父の葬儀で喪主を務めたけど、親戚縁者からは白い目で見られ、でも誰も真相を聴こうとはしなかった。みんな、そんな余裕はなかったのだ。

母も優しい人だったけど、父も、寡黙ながらに実直で、努力家で、みんなから慕われていた。

そんな父の死を皆悼み、涙を流して別れを惜しんだ。

そうして俺は父の骨を拾い、家に帰ったのだ。



俺は、父の死に寄り添う事で、少しの間は“自分は現代に生きているんだ”と思えた。

“俺が現代を離れなければ、父や母をもっと支えられたかもしれない。俺は何をしていたんだ!”

“それでも、彼女にまた会えるなら、俺はなんだってするだろう…”

矛盾した時の整理を付けられないまま、俺は、なんとか頭だけは現代にかじりつこうとした。でも、そんな無理はさして続けられなかった。


父についての事、母との思い出、おかねと寄り添った日々…それらが頭の中で交差する時、俺はどうしても、それらの時間が重なってくれない事に苦しめられ、仕事に行くのも苦痛だった。


四十九日の法要も過ぎてしまうと、頭の中にだけ持っていた現実感は薄れていき、俺はだんだん、時の流れさえ曖昧に感じるようになった。



俺はある日、現代に帰ってきた翌朝のように、土蔵の戸を開けた。そして、何枚かの着物と帯、それから下駄、あとは「おやえ」と「善助」の日記、さらに、その時偶然見つけた古い煙管を持ち出して、自室に帰った。


広い家には、もう俺以外は誰も住んでいない。だから、江戸のように振舞っていても、誰も何も言わない。

俺は毎日、着物を端折って帯を締め、煙管に刻み煙草を詰めて、煙を吐いた。

俺には、“これからどうしよう”と決める前に、考える時間が必要で、でもその考えからは何も答えが返ってこないだろうと知っていた。だから、ついでのように頭の隅でこう思った。

“金がなくなったら、どっかにぶる下がるかな。そうすればおかねとも会えるし、そこには父さん母さんも居るんだろう。みんなそこに居るんだろう”


俺は少しずつ、移ろいを続ける現世から離れ、毎晩夢で逢うおかねを、本物と思い込むようになっていった。