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桐生甘太郎
桐生甘太郎
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元禄浪漫紀行(51)~(57)【完結】

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第五十三話 故郷






東京都心から道を外れる前、俺は、色々な事を考えながら、景色を見ていた。

“ああ、越後屋呉服店はここから二本道を逸れてからだったな”

“ここのお稲荷さんはまだ続いていたのか”

“ああ、あそこにあった橋はもうないのか…”

でもそれも、ビル建築に置き換わった現代では上手く照らし合わせられなかったし、道路も大分変わっていたので、全部が全部分かるわけじゃなかった。


川を越えて進むと、だんだんと道は広くなり、時折緑が見えるようになってくる。やがて田畑が両側を挟む郊外へ出ると、もうすぐ俺の実家だ。

“江戸時代に居た頃は、江戸から出なかった。でも、ここらの景色は、あまり変わっていないんだろう…”

俺はいつまでも忘れられない時代を追いかけていたけど、家が近づいてくるとある一つの事を考え始め、やがて車は実家の駐車場へと滑り込んだ。


俺の実家は、少し荒れていた。障子は破れ、雑誌が床に積み上げられて、埃にまみれていた。

“母さんは掃除をいつもしていたけど”と思い出し、俺は先読みして嘆息するのを堪えた。

「まずは、母さんに挨拶しなさい」

俺はそう言われて、家の奥にある仏間に通された。


小さな位牌と、笑顔の遺影。父が仏壇を開けると、それが現れた。予測していたはずなのに、俺は目の前の事が上手く理解出来なかった。

「母さんは…」

俺がそう言いかけると、父は一度首を振り、こう言った。

「闘病は、長かった…でも、決してくじけずに居たよ。もう、十年も前の事だ…」

「十年…」

俺は思わず口に出し、十年前に自分が何をしていたかを思い出した。

“ああ、そうか…おりんがまだ幼くて、秋夫が商売を始める前…”

そこで俺は、自分が生きた時とこの現代に流れる時間が全く重ならない事に、少し混乱しかけた。なので、母の遺影に目を戻す。思い出される昔の面影をはっきり残す、溌剌とした母の笑顔。

母の笑顔は、いつも誰かを救った。母に声を掛けられた人は、みんな同じ笑顔で喜んでいた。優しく、細やかな気遣いが出来る母は、誰からも愛された。母も皆を愛していた。

何か困る事が起きた時も、母は相手を慮って、「そうねえ、きっとあの人も大変なのよ」なんて言っていた。

だけど俺は、母さんが旅立っていく所を見たわけじゃない。母さんが苦しんでいる姿だって、ほとんど見ていない。

“本当に?本当に死んでしまったのだろうか?”

でも、そんな事は父に改めて聞けるはずもなかった。でも、俺がすぐには受け入れられなくて戸惑っていても、父はそれについては何も言わず、「腹が減ったな、食事にしよう」と言った。



父がガスレンジのツマミを捻ると、炎がすぐに灯る。鍋の中には豚肉と玉ねぎが投げ込まれ、少し炒めてから、濃縮つゆと水、砂糖を入れて煮込めば、母がいつも作ってくれた料理の完成だ。

“母さんは、手の込んだ料理はあまりしなかったけど、いつもごはんは美味しかった”

そう思う裏で、俺はやはりまだ、あの時代の事を考えていた。

“江戸の裏長屋では、おかずの調理なんて出来なかったな…竈は一口だけだった…”


「さ、食べよう」

「うん、いただきます」

俺と父は、揃って母が生前作っていた料理を食べた。でも、同じように作ったはずなのに、味が違っていて、その時初めて、俺の心に母の死が迫ってきた。

もうあの味は食べられないし、この家をいつも綺麗に掃除をしていた母さんは帰ってこない。

“俺はもう永遠に母さんには会えないんだ!”

その思いに胸を責められ、堪えているのに、涙が溢れてくる。止まらない。食べている物が口に入っているのに、俺の口からは泣き声が漏れた。

「うう…うう…」

父は黙々と食事をしていて、俺は食事の間、泣き通した。



その晩俺は、実家に置いて行ったままだった学生時代の普段着に袖を通し、着物は洗濯へ出した。

洗濯機を見ても、電子レンジを見ても、俺はなぜかあまり喜びを感じられなかった。

母の死について考え続けるので精一杯だったのかもしれないし、江戸時代を離れた証拠として、それらが在ったからかもしれない。


交番での電話では、父は「今までどこに行ってたんだ」と怒ったのに、実家に帰ってからの父は、それを聞いてこなかった。もしかしたら、俺が母の事で混乱していると思っていたのかもしれない。だから俺には、本当の事を話すべきか、考える時間があった。



実家に居た頃に自室として使っていた部屋も、埃が積もっていたけど、父が出してくれたのは客用布団だったから、眠る気分はいくらか清々しかった。でも、俺は考え事に追いかけられ、あまりその快さは感じられなかった。


“本当の事を話したとして、信じてもらえるのだろうか?”

“いいや、その前に、あれは本当の事だったんだろうか?”


現代に戻って、現代人の生活にまた慣れ親しむようになった俺には、だんだんと「自分は江戸時代から帰ってきたのだ」とは思えなくなってきていた。


“話さないでおこう。でも、それなら代わりにどう言えばいいんだ…”


俺は考え事もそのままに、疲労に押されて眠ってしまった。



夢の中で、俺はおかねの死にざまを見ていた。

「ごほん!ごほん!」

おかねは盛んに咳をし続け、彼女の表情は苦悶に歪んで、息も出来ない苦しみに喘いでいる。

「おかね、しっかりしておくれ…おかね…!」

もう何をする体力もない彼女の体は、それでも吐き出させよう吐き出させようと彼女を苛む。俺はそれを見せつけられていて、“もう苦しめないで”と強く願うのに、彼女は血を吐いた。

「おかね!」

「げほっ…ごほ…」

喉に血痰が詰まっては大変だと、俺は彼女の背中を叩こうと、腕を引っ張って体を持ち上げようとした。でも、おかねは全く力を抜いて、べたっと布団に寝たままだった。

「おかね、痰が詰まっちゃ大変だから…」

そう言い聞かせても、彼女は何も言わないし、動かない。痰が詰まって苦しげにもがく事もなかった。

「おかね…?」

俺が彼女の顔を見ると、僅かに眉間に皺を寄せ、口元を血で濡らしたまま、彼女は目を閉じていた。

その様子を少し見て、俺にはすっかり分かってしまった。

理由もないし、何を知っていたわけでもないのに、彼女がもう動かないのを俺は分かってしまった。

俺はしばらく絶句して、動かない彼女の体を見詰めた。まるで時が止まったようだった。

俺は恐ろしかった。彼女の体が意思を失くした抜け殻となってしまった事などもう分かっているのに、それを理解するのが怖かった。そして理解した時、悲しみがわっと溢れた。

「や…いやだ…おかね…」

俺は泣きながらおかねの着物の襟首を掴み、彼女の体を揺らして名前を呼ぶ。おかねの首はガクガクと揺れ、枕から頭が落ちても、彼女は起き上がらなかった。

「おかね…まだダメだ!ダメだ、おかね!」

もう届かないのを知りながら、俺はいつまでもそう叫んでいる。その内に長屋の住人が俺の叫びを聞きつけ飛んでくるまで、俺は彼女にしがみついて泣いていた。



はっと気が付いた時にはもう朝だった。俺は少し息切れをしていて、汗をかいていた。

「おかね…」