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桐生甘太郎
桐生甘太郎
novelistID. 68250
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元禄浪漫紀行(51)~(57)【完結】

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おかねは、その年の暮れ、逝ってしまった。五十九歳だった。そして正徳が終わった。


彼女が最後に吐いた血が、まだ手にこびりついている。俺はそのままの姿で放心していてしばらく気づかなかったが、不意にどやどやと足音がして、振り返ると、おかねの両手両足を二人の男が抱えて、樽に詰めようとしていたのだ。

「何を…何をする!」

俺ががむしゃらに彼らにつかみかかろうとしても、脇から誰かが出てきて、俺を押さえつけた。

「嫌だ…!嫌だ…!連れて行くな!連れて行くな!」

おかねを樽に押し込め、蓋をした連中が、まるで死神のように見えた。でも、誰も俺を叱らなかった。

秋夫やおりんが駆けつけてから、俺はやっと正気を取り戻したが、泣いて泣いて話をするどころではなく、おりんや秋夫も同じだった。


近くの寺で経を上げ、縁のある人達とのお別れが済むと、彼女の体は土の下に埋められた。

俺は、誰の悔やみを聴く余裕もなく、ぼーっとしていて、秋夫の方がしゃっきりしていたくらいだ。

葬儀が終わって家へ帰る道で、ぽつりとこんな言葉が降ってきた。


“俺が江戸時代に来たのは、彼女のためだったのに”


俺はぴたりと立ち止まる。口から小さく、「そうだ」と声に出た。

そうだ。俺が江戸時代に来たのは、彼女のためだった。子供達はもう独り立ちしたんだ。あとは彼女の微笑みを見詰めて、また彼女に尽くせる日々がやってくるはずだった。


顔を上げると、遠くにぼーっと富士が見え、頭の上には太陽があった。俺はびしっと空を指さし、太陽を睨みつけてこう叫ぶ。

「やい!もう俺を戻せ!俺はこんな所にいたくなんかないんだ!」

“おかねの居ないところになんて…!”

俺はそう思っていたはずが、どこからか懐かしい香りが漂ってくると、強い恐怖が湧き上がった。

俺はその時、寺からの小さな道を歩いている所で、辺りには誰も居なかった。そこへ、あのお香の香りと、眠気がやってくる。もう何十年も前なのに、俺はなぜかその香りをはっきり覚えていた。

「いやだ…」

不意に口からついて出た泣き声さえ、どろっとした眠気に食い潰されていく。

“嫌だ、彼女と別れてしまうなんて嫌だ!”

俺はそう念じて、泣きながら目を閉じた。