歴史の証明と、オカルト、SF系とのコラボ
という感覚を分からずに通り越しているわけだが、この時は一抹の寂しさというものを感じることはなかった。
中学時代には、よくSF小説を読んだりしていた。
当時は、ネットや携帯電話の普及が顕著になってきたことで、そろそろライトノベルやケイタイ小説というのが、結構出てきて、話題の小説の中には、ネット用語をふんだんに使った話が多かったり、無駄に改行したりして、
「文字数を稼いでいるだけじゃないのか?」
と思わせるものも、結構あったりした。
本人としては、あまり好きなものではないのだが、そんな小説が出てきたおかげで、
「他の小説らしい小説を読んでみたい」
と思うようになり、しかも、
「少し時代が違うものが読みたい」
と感じ、本屋で探してみることにした。
ミステリーも捨てがたいと思ったのだが、昭和の時代、戦後のイメージが残った頃の小説を探していると、ちょうど、その頃に静かなブームとして、
「SFブーム」
というのがあることを知った。
ミステリーというか探偵小説も好きで読んでみた。その中で、気になったのが、
「耽美主義」
というものだった。
調べてみると。当時の探偵小説というものに、戦前から戦後にかけて言われていたジャンルに、
「本格派探偵小説」
というものと、
「変格派探偵小説」
というものがあるということを知ったのだった。
本格派というのは、頭脳は探偵の出現や、トリックなどに重きを置いた、いわゆるオーソドックスな形の、王道型ともいえる形のもので、変格派探偵小説というのは、少し猟奇的なストーリー性であったり、変態趣味でったりしたが、時代が進むにつれて、その派生型として、怪奇小説はホラーに、空想小説はSFに、そして、幻想小説などは、ファンタジー小説などというジャンルに広がりを見せていくといってもいいだろう。
そういう意味で、今のミステリーと呼ばれる言葉は、ホラー、SF、ファンタジーにもつながるという意味での、広義な意味として捉えることができるだろう。
草壁少年は、そんな中でも、少し気になったのが、変格派小説の中でも、減少小説に近いもので、
「耽美主義」
と言われるものに、興味を持った。
耽美主義と呼ばれるものは、小説の世界だけではなく、美術、芸術に多いものだ。つまりは、
「何をおいても、美というものを追求する」
というもので、
敢えて、ここでは、
「ミステリー」
と呼ばせてもらうが、そのミステリーの概念の中で、
「犯罪や、殺人というものを、美という観点から見て、美しいものであれば、殺人であっても、犯罪であっても、それは芸術として捉えることができる」
という感覚だった。
だから、逆に、
「美しさを求めるための、犯罪や殺人があってもいいのではないか?」
というものであり、美しさだけを追い求める人間が、自分によって作られる芸術に、
「人の死」
という題材を設けることで、作り上げられるきょう局の作品を、自分だけで楽しむわけではなく、公開することで、自己満足を煽るというものだ。
耽美主義の人間は極端ではないかと思っている。
「美しさを求めた作品を他人に公開することが自己満足であり、公開しなければ、最初から殺人などする必要はない。だから、殺した相手を晒してやらないと、死んでいってくれた人に失礼だ」
という考え方と、
「あくまでも、殺人は自己満足なので、人知れず自分だけで楽しむものではないか?」
と考えている人。両方ともに、耽美主義のいきつく先ではないかと思うのだった。
小説の中では、公開することに喜びを得る犯人が登場した。そういう犯人ではないと、小説に描きにくいのかと思ったが、少し時代をさかのぼると、実際には、殺人を本当は隠そうとしたのに、考えとは裏腹に、見つかってしまったというパターンの小説もあるということだった。
昔の小説の耽美主義殺人は、いかにも、猟奇殺人のようなものが多く、まるで今の、
「フラワーアレンジメント」
のような形になっていた。
当時、フラワーアレンジメントのようなものがあったのかどうか分からないが、(ググってみると、紀元前からあったというが、今のようなものとは違ったのかも知れない)日本であれば、
「生け花」
というジャンルに置き換えられるのではないだろうか。
しかし、芸術作品として、舞台の上で、踊ったりするものを一般的に、フラワーアレンジメントだと思っている人もいるだろうから、生け花などと同じように、流派もたくさんあることだろう。
流派のあるものは、えてしてたくさん、似たものに変革していったり、枝分かれしたことで、限界のあるところでは、どうしても、範囲が狭まってくることだろう。
そのために、逆にジャンルの境目があいまいになり、見えるものが見えなくなってしまうことも少なくはないといえるのではないだろうか。
ただ、耽美主義と呼ばれるものは、他の猟奇犯罪などとは一線を画しているものだと考えることができるだろう。単純な愉快犯と一緒にされては嫌だと思う人もいるだろうから、耽美主義をまわりに見せびらかすのを嫌う人もいる。
「見せびらかしたいと思っているのは、自分の芸術性に自信がないから、不特定多数に見せることで、少しでも、自分に賛同してくれる人を探そうとしているのかも知れない」
と考えられるのだった。
耽美主義が美を追求するものであることから、
「犯人は女ではないか?」
という単純な人もいるが、耽美主義の殺害をしようとすると、かありの力が必要で、一人で行うのだとすれば、女性では不可能な場合がかなりある。
やはり、犯行は男にしかできないといってもいいかも知れない。
男にだって、美を求める人はいるだろう。
むしろ、男の方が、
「普通の状態では、美を感じることができないが、殺人などという特殊な感情が入り混じったとことで行う殺人は、まわりの目に触発され、自分が追求した美というものに対して、いかに感動してくれるかということが認識できる」
として、本人は本当は耽美主義ではなく、殺人に限っての耽美主義だと考えていることだろう。
しかし、殺人に限った耽美であっても、耽美主義ということに変わりはないのだ。
そう思うと、殺人によって、そのまま放置することは、ただの残骸のようなものにしか見えず、惨劇としての印象しか残らないが、そこに美というものを入れると、正反対の歓声が生まれることで、それが化学反応を起こし、まったく別のものとして出来上がるかも知れない。
そこに、さらなる悲惨さを感じる人もいれば、美が変化することによって、さらなる耽美を味わうことができるのではないかと思う人もいるだろう。
フラワーアレンジメントの世界には、その裏には、そんな残虐性によって生まれる、耽美主義というものが、背中合わせとなって、潜んでいるのかも知れない。
フラーアレンジメントを志す人も、耽美主義を追求している人も、どちらも、この二つが結びつくことはありえないと思っているかも知れないが、それは、どんな形になるのか、想像ができないことと、想像することに罪悪を感じるからであろう。
作品名:歴史の証明と、オカルト、SF系とのコラボ 作家名:森本晃次