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必要悪な死神

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 小説を書く時も、同じように、最初は、静寂の中でしかできなかったが、プログレやクラシックを聴きながら書いていると、意外と進んだりするものだった。
 最初は律義に原稿用紙を使っていたが、却って堅苦しくなってくるのを感じ、途中から、レポート用紙や、少し小さめのノートに書くようになった。
 それが功を奏してか、何とか、曲がりなりにも最後まで書けるようになってきたのだった。
 小説が書けるようになったのは、好きな小説を読むことで、
「自分も書いてみたい」
 と思う感情。
 これは、別によくあることなので、そんなに意識することではないと思うのだが、小説を読む時に、ちょうどその頃興味を持った、
「プログレッシブロック」
 と一緒に聞いたことで、まるで化学反応を起こしたかのように、自分の中で、
「何かが目覚めた」
 という感覚になったのだ。
 プログレを聴くようになったのも、
「クラシックが好きだ」
 という一言から、
「それじゃあ、これがいい」
 と言って教えてもらったものだった。
 プログレを聴くことになるのに、きっかけがあった。そして、小説を書くことになるのに、きっかけとして、探偵小説を読むというものがあった。その間に、
「書きながら聴く。あるいは、聴きながら書く」
 という化学反応を引き起こすための、
「きっかけ」
 としての、タスクのようなものがあった。
 そのタスクを、塚原は、
「副作用のようなものだ」
 と思っている。
 何か一つの作用が、想定していなかったような、別の効果をもたらすようなことをいうのではないだろうか。
 ただ、副作用という言葉は、ある意味、あまりいい意味に使われるということはほとんどない気がした。
 例えば、何かの薬を飲んだ時などに、ごく稀に身体に蕁麻疹ができたりするということを聞いたことがあったが、それもまさにそういうことであろう。
 副作用というのは、薬に限ったことではない。
 アレルギーといわれるものも、一つの副作用なのではないだろうか。
 牛乳アレルギーの人が牛乳を飲むと、痙攣を起こしたり、泡を吹いたり、呼吸困難に陥ったりするのは、一種の副作用のようなものではないだろうか。
 厳密には違うものなのかも知れないが、たとえ話としては、ちょうどいい。
 その頃は、なんでもかんでもが、副作用という言葉で一つになっていたが、令和の時代になってから、伝染病が世界的に流行ったのだが、その時、ワクチン接種において、重要なこととして、
「副反応の問題」
 というものが騒がれるようになった。
 副作用というと、基本的には、医薬品や医療行為に伴った。予期せぬ反応が起こった時のことをいうのだが、途中から、医薬に限らないところでの予期していない効果が現れたりした時にも、
「副作用」
 という言葉を使ったりすることがあった。
 副作用という言葉が独り歩きをしたといってもいいだろうが、
「作用」
 という言葉が、医薬品に限らず広範囲の印象を与えるからではないだろうか。
 逆に、
「副反応」
 というのは、また別のもののようにも思えるが、実は、
「副作用の中でも、細菌やウイルスに対してのワクチンを接種することによって生じる、予期せず症状というものを、副反応と呼ぶ」
 ということである。
 つまり、副作用というのは、薬物関係によって生じるいろいろな反応全般のことをいうので、副反応の他にも、
「薬害」、
「薬物中毒」
 などという別のものも、含まれたりするのである。
 また、副作用というものは、あくまでも、副次的に起こるものなので、必ず、主作用と呼ばれる、
「本来薬を接種したことによって得られる効能などのこと」
 と、対比したものである。
 元々、こちらが、正統派であり、副作用は、よくないこととして得られたものなので、本当であれば、
「ありがたくないもの」
 ということになるだろう。
 だが、このような副作用があることで、
「科学や医学が発展してきた」
 といえるかも知れない。
 発見や発明の多くは、
「偶然の産物から生まれた」
 と言われるものも多くあり、それらが、時として兵器に使われたりして、それが大きな富を生んだりすることもあるのだった。

                 大団円

 例の、鎮守の森での井戸を見たあの時、走馬灯のように、前述の話が走り抜けていった。
 小学生の塚原にしては、あまりにも、難しい話であったり、考え方も出てきた。発想は子供っぽいところが多かったりしたが、それ以上に、何か違うものが感じられたりしたのだ。
 小学生といっても、聴いている音楽だったり、読んでいる本は、小学生としては、少し背伸びしているものだったような気がするので、自分では、中学生くらいの意識だったのだ。
 ただ、時々、意識が飛んでしまうことがあった。
 冷蔵庫に閉じ込められたという友達の話の中にあったように、
「何か違うところに行って、戻ってきたような気がする」
 という意識もあった。
 それは、紐で引っ張られて、その反動で戻ってきたような感覚だった。
 また、
「絶えず、何かを考えているような気がする」
 と思っているのに、途中が時々抜けているような気がしたのだが、そんな時、頭の中で考えた時間と実際の時間との間にまったく差がないことから、
「抜けているという感覚は、錯覚なのだろう」
 と思うのだった。
「誰かと入れ替わっているかも知れない」
 という思いは、このあたりから生まれてきたものではないだろうか。
 小学生というと、
「感じたことすべてが、正しいことだ」
 という思いがあり、逆に、
「正しいこと以外を感じるというのは、ありえない」
 と思っていたのだが、中学生くらいになってくると、そんな矛盾が自分の中にもあるのを感じてきた。
 夏になると、頭がボーっとして、
「直射日光には当たらないように」
 と言われ、気を付けているのだが、表に出ている時は、そんなわけにもいかず。帽子でもかぶっていればいいものを、それすら、怠ってしまっていた。
 一度、かぶるということをしないと、かぶることにわだかまりのようなものを感じる。ちょっと頭を切り替えればいいだけなのに、それが簡単にはできないのだ。
「直射日光を浴びてしまうと、日射病に罹ってしまう」
 と言われていたが、いつの間にか、日射病という言葉は言われなくなり、熱中症になった。
 これも、
「副作用と副反応」
 と同じようなもので、
「どちらかが、どちらかに含まれてしまう」
 というものだ。
 実際には、
「日射病が熱中症に含まれる」
 というもので、実際には、それぞれ別々の意味で使われることが多いが、それは、きっと、全体として含む方に、
「広義としての意味と、狭義としての意味とのそれぞれと、比較することになるからなのではないだろうか?」
 ということだからである。
「そういえば、友達が行方不明になった時、確か冷蔵庫の中にいたといっていたっけ?」
 扉が閉まってしまうと、普通であれば、窒息死というものを考えるのではないだろうか?
作品名:必要悪な死神 作家名:森本晃次