小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

必要悪な死神

INDEX|1ページ/25ページ|

次のページ
 
 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和四年一月時点のものですが、今回の小説は、時代物の架空小説となりますので、存在する人物や事件、架空の人物や事件が混在します。さらに、実在する歴史上の人物であっても、話として架空の話もありあすので、ご了承ください。

               苛めの経験

 今年、五十歳になる塚原慎吾は、最近夢を見るのは、いつも昔のことであった。大学時代が一番多かったが、中学時代も結構多かった。小学生時代というと、何か思い出したくない思い出だったこともあって、それまではあまり見なかったのだが、五十歳になるかならない頃から、急に見るようになった。
 夢というものが、曖昧だということもあって、子供の頃の夢を見たとしても、見たのはいつ頃だったのかということが、日がたつにつれて、忘れてしまうのだった。
 昨日のことなのか、一週間前のことなのか、はたまた一か月前のことなのか、それすら分からないくらいだったのだ。
 だから、当然、時系列もバラバラで、ただ、分かるとすれば、二日以上続けて夢を見たとすれば、その意識を忘れることはなかったのだ。
 とはいえ、
「子供の頃っていつまでのことなんだ?」
 と思った時のことであった。
「中学時代まで? 高校時代まで? はたまた大学卒業するまで?」
 と考えるのだ。
「中学時代まで」
 ということであれば、義務教育という観点からの発想であろうか?
 いや、それだけではなく、
「子供料金と大人料金の違い」
 という意味でも中学生までが子供と考えるのが妥当だろう。
 交通機関の運賃、イベント会場への入場券、その辺りは大体が、中学卒業までが子供料金になっていることだろう。
 では、高校時代までというのは、どういう考えであろうか。
 令和四年になると、法律が改正になり、
「十八歳未満を未成年」
 とすることになるのだが、それまでは、未成年は、二十歳未満であった。
 だが、高校を卒業すると、就職する人、進学する人に分かれる。それまでの友達との道に大きな隔たりがあることを考えると、
「高校時代までを子供だ」
 と考えることもできるだろう。
 大学卒業までと考えるのは、あくまでも、大学に進んだ人の考え方である。
「逆に大人になるのがいつなのか?」
 と考えると、その時は人によってバラバラになってしまう。
 要するに、
「始まりがバラバラであるから、終了をそれに合わせるのか、それとも、終了が一つになるから、始まりが一つになるのか」
 ということであり、
「いつからが大人なのか?」
 という考えはナンセンスであり、
「いつからが、子供なのか?」
 という考えに従う方が、考え方としては、正当ではないかと考えるのだった。
 塚原は、子供の頃は、
「中学生までが子供だった」
 と感じていたが、最近では、
「大学生までが子供だ」
 と、途中のどこかで変わっていた。
 理由は分からないが、年を取り、中学時代までと大学卒業までの間がそんなに長く感じられなくなったからではないかと思ったが、この発想には、逆もあるのではないかと思うようになっていた。
 どちらにしても、高校時代までという選択肢は、ほとんどか感じたことはなかったのだった。
 子供の頃というくくりの中でも、塚原は、小学生までと、それ以降では違っているという感覚を持っていた。特に小学生の頃というと、相当昔のことのように思える。その理由は、いじめられっ子だったということだった。
 その頃の苛めは、今のような陰湿なものではなかったが、苛められている側とすれば、たまったものではない。教室に行くと、入り口のところで待ち伏せをされていて、入ってくるなり、腿の外側に、相手が膝を入れてくる。
 ツボがあるので、ツボに入った時はものすごく痛い、ひどい時は、半日くらい痛みが残ってしまうことがあるくらいだ。
 何度も同じ目に遭っているうちに、次第に教室に入る時に警戒するようになり、誰もいないと確認できたとしても、入る時、腿の外側を抑えて入る癖がついてしまった。
 これは、ただの一例にすぎず、毎日同じようなことをされていると、慣れてくるどころか、怖くて仕方がなくなってくる。
 人間というのは、一度酷い目に遭うと、そこから先は、常に最悪ばかりを考えるようになる。ネガティブになってくるということなのだろうが、そんな状態を、
「トラウマになる」
 というのだろう。
 塚原が子供の頃には、ネガティブなどという言葉も、トラウマなどという言葉もなかったような気がする。
 もちろん、なかったわけではなく、使われなかったというだけで、
「英語だから、意識しなかっただけなのか?」
 と考えたが、そうでもなかったような気がした。
 学校では、先生は塚原が苛められているという事実を把握していたのだろうか? 塚原が苛めを受けていたのは、小学四年生くらいから、六年生までの間だったが、そのうち、五年生から六年生までは同じ担任だった。
 その先生は、見ていて、生徒には人気があって、絶えず生徒に寄り添っているような先生だったので、塚原が苛めを受けていることを知らなかったというのは、ないだろうと、塚原は思っていたが、本当にそうなのだろうか?
 苛めっ子の中には、先生と仲のいい生徒もいた。媚を売って、苛めの事実を隠しているのかと思ったが、塚原自身が苛めっ子だったら、そんな両面を持っているのに、片方だけしか見せないなどということはできなかった。
 ひょっとすると、
「苛めている連中には、苛めをしているという意識はないのかも知れない」
 と感じていた。
 まさか、友好の気持ちの表れだなどと思っているとすれば、
「狂っている」
 としか思えない。
 自分には絶対にできないことであるが、自分が苛められている腹いせに、他のもっと弱い連中を苛めているとすれば、この感覚も分からなくはない気がする。
「感覚がマヒしてしまっているのだろうか?」
 普通であれば、自分がされることを他の人にするのは、
「絶対にできない」
 と思うだろう。
 自分が受けた痛み以上の苦痛を相手が味わうことになるという思いが塚原にはあるからで、相手がどう感じるかというよりも、自分が相手に自分の苦しみを与えることで、却って自分に同じ、いや、
「もっと激しい苦しみが返ってきたらどうなるだろう?」
 と考えてしまうのだ。
 それが、
「ネガティブに考えてしまう」
作品名:必要悪な死神 作家名:森本晃次