Locusts
橋本は眉をひそめた。ロッカクは、車で十分ぐらいの繁華街にある居酒屋だ。主人はこの団地の出身で、屋号は『旬の肴と季節の野菜 酒処 栄』だが、ここの連中がそんな長い名前を覚えられるわけがない。その証拠に、ロゴの形が六角形だからロッカクと呼ばれている。橋本は部屋にすら悟られないよう、小さくため息をついた。ひそめた眉は、簡単には元に戻らない。あの店には一度行ったきりで、いい思い出は残っていないから。わたしは高校を出たばかりで、翔と知り合う直前。当時はキノもまだ下っ端で、早川とポン松が仕切っていた。唯一の救いは、集まった中でひとりだけ未成年だったわたしにお酒を飲ませようとした早川を、ポン松が止めたこと。お酒を飲んだこと自体は何度もあったけど、あの場で飲まずに済んだのは有り難かった。皆が酔っぱらって場がめちゃくちゃになる前にポン松が帰してくれたのも、今となっては感謝している。
小森を貸し切り状態のロッカクに呼ぶ理由は、何だろう。そこまでしてプライバシーが必要な話など、今さらあるのだろうか。頭の片隅で考えながら、橋本はバッグを肩に掛けた。そのまま出て行きそうになったが引き返し、棚の上に置いてある小さなクマのぬいぐるみに一度触れると、小森にスタンプで返信しながらスニーカーを履いて、六〇五号室から出た。晩御飯の買い物を済ませないといけない。翔は、半日こたつ布団の山にもたれていてもカロリーを消費するらしく、しっかり一人前食べる。見張りなんかした日には、腹ペコで帰ってくるに違いない。
『早川さんが先に来た』
スタンプで打ち切ったはずのやり取りに小森の返信が足されて、エレベーターに乗りながら橋本は笑った。こういうところが可愛いのだけど、同時に、自分とは全く違う場所からやってきた人間だということを思い知らされてしまう。おそらく小森は、何かを間違えても周りが合わせてくれる環境で育った。こういうやり取りの作法を間違えて髪を焼かれたり、服を切られたりしたことがない。わたしは主に母親から教わった。口を閉じるタイミングを間違えたら、次に口を開く気がなくなるぐらいの目に遭うと。
黙っていることの尊さを教えてくれたクマのぬいぐるみは、通称『こぐまのプー』。わたしが五歳のときに、全国の建設現場を渡り歩いていた父親が土産で買って来てくれたものだ。土産は、その二年後に形見になった。翔が近くにいないと、空いたスペースにすぐ割り込んできて、我が物顔で腰を下ろす記憶。いつかは棚にしまいこんで、気が向いたときだけこちらから取り出すような一方通行の関係になりたい。
橋本は最寄りのスーパーまで歩き、店のロゴが掠れて飛び飛びになったカゴを持ったタイミングでようやく『いい記事期待してるよ』と返信した。無限に食材が並ぶ棚は、見ながら歩き回るだけも色々なことを忘れられる。ブロッコリーとピーマンをカゴへ放り込み、豚コマのパックを二つ買うと、ビールを買うために迷路のような通路へ入った。まず目に入ったのは、C棟の八〇一号室に住む掛井が棚の下段にあるパックのリンゴジュースを取ろうとして腰を庇っている姿で、その不安定な姿勢に橋本は思わず小走りで駆け寄った。
「掛井さん、しんどいっすよそれ」
「おー、ひなちゃん。買いもんかいな」
掛井は腰を庇いながらリンゴジュースと共に起き上がり、カートを引き寄せてカゴに入れた。橋本はうなずくのと同時に、ドーナツやスナック菓子が入っていることに気づいて、目を丸くした。その視線に気づいた掛井は、しわだらけの顔をさらに中心に寄せて笑った。
「これな……。親戚が来よんねん」
「掛井さんが食べるんかと思いました」
橋本はそう言うと、そのまま続いて口から出かけた『親戚なんかおったんですね』という言葉を引っ込めた。
「こんなん、胃に入るかいな。ほんまに、上のもんは取られへん、下のもんは取ったら上がらん。どないせえっちゅうねん」
掛井は言い終わるのと同時に笑い、橋本も釣られて笑った。掛井は小柄で、肩の位置が少し高いぐらいだ。確か、先月六十歳になった。スーパーにやってくる顔見知りの中では、一番安心して話せる相手だ。話し方にも棘がないし、何が起きても菩薩のような顔でやり過ごす。パチンコで作った借金と一緒に過ごしている内に、ほとんどのことは気にならなくなったのかもしれない。
「翔くんとは、うまいこといっとるんかいな?」
そう言うと、掛井は一番得意な中段の棚からサイダーの缶をひとつ取って、カゴに入れた。
「翔とはまあ、相変わらずです」
「こんなとこ、若い内に出なあかんぞ。今晩でもええぐらいや」
掛井の言葉に、橋本はうなずいた。今、この瞬間の話だ。数時間後でも、明日でもなく。環境を変えなければならないのは、分かっている。
「もうちょっと貯金して、余裕出てからですねー」
橋本がそう言って舌を出すと、掛井はそれ以上追い打ちをかけることなく、カートを押し始めた。
「今日は、二人とも家におるんか?」
掛井は、真っ白の蛍光灯に照らされて眩しそうに目を細めながら言った。橋本はカゴの中身を眺めながらうなずいた。
「そうっすね。翔は出てますけど、帰ってきたらこれちゃーって炒めて食わして、あとは寝る感じです」
人生の終わりまでを全てネタバレしたように世間話は続かなくなり、レジの前で小さく頭を下げると、橋本は掛井を見送った。さっきから、ポケットの中でスマートフォンが震えている。『小森ちゃん、いい加減にしてよ』という言葉が頭に浮かび、橋本は空いているほうの手でポケットを探った。メッセージが一件。送信者の名前は『ポ』。橋本は舌の上でうろついていた息を思わず呑みこんだ。小森じゃなくて、ポン松から。
掛井とポン松には共通点がある。二人とも熊毛のことを『アホ毛』と呼ばない。だからこそ、心には特別に二人分の場所を空けて、いつでも入って来られるようにしている。でも、消えてから一カ月が経って、今?
『橋本、久しぶり。ちょっと帰宅してんねんけど、身動き取れんでさ。お菓子とか飲み物買ってきてくれへんかな? 弁当とか』
「は?」
橋本は思わず声に出した。『橋本、久しぶり』の部分は微かに感動的だ。一カ月ぶりという感じがする。でも、その後は一体何?
『お久しぶりです。友達でも来てるんですか?』
『まーそんな感じ』
短いやり取りを終えてスマートフォンをポケットに滑り込ませようとしたとき、橋本は通路を振り返った。ポン松じゃなければ、このまま無視しても何とも思わない。ただ、翔はできるだけ怖い顔を作ってうろついているだろうし、家に帰っても長い時間ひとりで過ごすことになる。それに、翔の地位向上を目指すなら、ポン松の言うことは聞いておいた方がお得だ。早川やキノを言葉で押さえつけることができる数少ない人間だし、ポン松の依頼はしつこい交換条件がなくて、全部その場限りのやり取りというメリットがある。『あのとき、面倒見てやっただろ』から始まる地獄めぐりは、経験したことがない。橋本は覚悟を決めたように小さく息をつくと、やり取りを再開した。
『何人分ですか?』
『二人分かな。あ、予算一万以内でよろしく』