Locusts
熊毛はそう言うと、スマートフォンを握る手から小指だけを立てながら、大きなあくびをした。橋本は、今度は声に出して笑った。小指を立てたかったわけじゃない。体のあちこちがめちゃくちゃなピアノ線で繋がっていて、どこかを引っ張ると全く関係のない場所が動く。『アホ毛』という有り難くないあだ名は、そういうところから来ているのかもしれない。
『アホ毛に、なんであんな可愛い彼女がおんねん』
これは去年、駐車場で小耳に挟んだ。
『アホ毛が、ホムセンで誕プレ探しとったわ。ひなたの誕生日にホムセンはないやろ』
これは今年で、エレベーターホール。ホームセンターで買って来てくれた衣装ケースは頑丈で、重宝している。
どちらも主語がなければ、純粋な誉め言葉として頂戴したい。この団地の連中が翔のことをアホ毛とさえ呼ばなければ、不意に走る静電気のような微かな壁を感じることなく、二人きりでいられる。ただ、こたつから生えてきた途中で成長を止めたような寝姿を見ていると、静電気では説明がつかないぐらいに気持ちが揺らぐときもある。
「青鬼は、なんて言うてんの?」
「いや、ヤバいてマジで」
熊毛はこたつ布団から体を引きはがすように起きて、スマートフォンを差し出した。橋本は、ガラスフィルムがばりばりに割れた画面に目を凝らせて、『ポン松見かけたら連絡よろしく』という文字を読みながら苦笑いを浮かべた。
「へー、帰ってきたんや」
「せやねん、ヤバいぞ。今日は早川さんも、木之元さんもいてないからな。止めるやつがおらん」
熊毛が片方の眉をひょいと上げてヤバさを表現し、橋本は真似るように反対の眉を上げると、言った。
「ボス二人は、なんでおらんの?」
「雑誌の取材受けるらしい」
自分の手柄のように、熊毛は胸を張った。その様子を見ながら、橋本は呆れたように目をぐるりと回した。これがわたしの彼氏であり、もしかしたら将来の夫。実際、ボス連中にはよくしてもらっている。最近、知り合いの知り合いのラッパーみたいな人が歌うミュージックビデオに出してもらったばかりだ。車からしかめ面で外を見ている男の役で、出演時間はイントロの数秒だけ。でも、それはアホ毛の勲章だ。打ち上げにも呼ばれて有頂天だったが、わたしが体調を崩していて一緒に行けないというと、『じゃあおれも行かん』と言って、本当に誘いを断ったし、看病してくれた。わたしの体調はすぐに元通りになって、ようやく声を出すだけの余裕ができてまず『ごめん。ひとりで行ってきても良かったのに』と言った。それに対する返事は、『いや、他にもようさん女とか来るらしいから』。自分がモテる前提なのが可笑しくて、そのときは思い切り笑った。今でも思い出すと笑える。
「取材かあー、小森ちゃんかな?」
橋本が言うと、それまで会話をしていたとは思えないぐらいの、長い間が空いた。熊毛は、Tシャツについた埃を太い指でつまんで剥がしながら、言った。
「早川さんはすごいわ。インタビューとか、受けてみいや。ばり緊張するやろ」
橋本は、無理やり話を合わせるようにうなずいた。その少年のように純粋な目を見ていると、自分の質問が宙に浮いても否定はできなくなる。
「小森ちゃんかな?」
要点を繰り返すと、熊毛は初めてスイッチが入ったように目を大きく開いてうなずいた。
「せやな。最近の流れやと、あの子やろね」
橋本は、どんな風にインタビューが進むか想像しながら、口角を上げた。小森まゆみはアウトロー系の記事を専門に書くライターで、同い年。ライターという肩書きは中々格好いいが、実際には私立大学をドロップアウトしたお嬢様で、自分が何の苦労も知らずに育ったということを上書きするように、要所要所に上品な柄のタトゥーを入れている。外見でアウトローを演出する努力は認めるが、彼女が記事を寄せるWEBメディアを運営しているのは、小森家の古い知り合いだ。そんな感じで、小森にはまだまだ次の安全柵が残っている。ただ、その柔らかな人生がねじ曲がったきっかけがあるとすれば、二十歳のときにキノの彼女になったことだ。去年別れるまでは、ちょっとした飲み会でもよくついてきていた。キノのどこが良かったのか今でも分からないし、そこはこちらが逆にインタビューしてみたいぐらいだ。
「キノって、より戻す気ないんかな?」
橋本が言うと、熊毛はテーブルに置いた煙草の空箱をくしゃくしゃに握りしめて、持ったままの手でポケットを探った。目を部屋の中にしばらく泳がせて煙草の箱を探し、自分でポケットに突っ込んだばかりの空箱を探し当てて目を輝かせた後、数十秒前の記憶を呼び起こして空箱をゴミ箱に捨てた。
「ごめん、何と?」
「人間。もうええわ」
橋本はそう言うと、棚を開けて真新しいウィンストンの箱を取り出した。
「大事に吸いたまえよ」
熊毛が歯を見せて笑いながら煙草の箱を受け取るのと同時に、スマートフォンの画面が光り、橋本はその間抜けな着信音に笑った。熊毛のスマートフォンは全ての着信音がほら貝のような音で、設定がおかしくなったきり戻せなくなっている。熊毛は空いている方の手でメッセージを開くと、スマートフォンと対話するように何度もうなずいた。
「見張りを頼むってよ。おいおい、何が起きてんねん?」
「それが分からんから、見張るんちゃうの?」
橋本が言うと、熊毛は納得した様子で腰を上げた。ボルティモアレイブンズのジャケットを羽織り、封が切られていないウィンストンをポケットへ入れると、キャップを持って行くかどうか迷うように手先を動かして、時間切れになったように小さく息をついた。
「めっちゃもたつくやん。どうしたん、行きたくないん?」
橋本が言うと、熊毛は壁にかかった時計を見上げた。
「いや、メシどないしよかなって。先になんか買ってこよか?」
「作っときますがなー」
橋本の言葉に熊毛は笑うと、ブーツを履いて六〇五号室から出て行った。音だけではなく空気まで静かになった部屋の中で、橋本は大きく息を吸い込み、熊毛の形にへこんだこたつ布団の上に背中を預けた。熊毛の体が収まっていた跡は、ネットカフェの椅子のように深くへこんでいて、体が完全に隠れそうになる。アホ毛とひなた。二十四歳と二十二歳のカップル。縦横に大きい身長百八十センチの巨漢と、細身な身長百五十センチのでこぼこコンビ。実際、先行きはかなり怪しい。アホ毛は見張りを喜んでやってる場合じゃないし、わたしはいつまでも古着屋でバイトをしている場合じゃない。でも、数時間後や明日のことだけは鮮やかに想像できる上に、それが頭の中にあるときは他の心配事を忘れてしまう。
橋本はスマートフォンを片手に持つと、バッグを引き寄せながら小森にメッセージを送った。
『おつかれさま。取材の日って聞いたけど、どこでやってるん?』
『おつです。今日いきなり決まったんやけど、珍しくロッカク貸し切り。まだ二人とも来てない』