Locusts
敦史は目の前で起きたことが理解できないまま、火柱に歩み寄った。その体が炎に炙られる寸前で橋本と川手が肩を掴み、倒すように後ろへ強く引いた。ステップワゴンの割れたサイドウィンドウが音を立てて崩れたとき、尻餅をついたまま動けなくなった敦史は、遠くでパトカーのサイレンが鳴っていることに気づいた。
赤鬼はポン松の顔を睨みつけていたが、サイレンの音を聞いて固めていた拳を開いた。
「ポリやぞ」
「せやな」
ポン松は赤鬼を無表情のまま見返していたが、サイレンの音が迷うことなく近づいてくることに気づいて、目を伏せた。
「通報かー。まあ、これだけ大騒ぎしたらな」
「早川がグルやったみたいやな。お前も含めて、こんなしょうもない奴らとは思わんかったわ」
赤鬼が言うと、ポン松はそんなこと前からお見通しだったように、鼻で笑った。
「買いかぶりすぎや。俺らは人間のくずやぞ」
愛想笑いを返すと、赤鬼は警察が中へ飛び込んでくる前にできることを考えた。青鬼が始めたこととは言え、自分もある程度は関わっているし、無罪放免とはいかないだろう。だとしたら、青鬼がこうやって死んだお返しができるのは、今だけだ。赤鬼は顔を引くと、ポン松のがら空きになった顔面に頭突きを食らわせた。ポン松は頭をのけぞらせながら尻餅をつき、鼻血を出しながら立ち上がると、咳ばらいをして言った。
「お前も、同じ立場やったら逃げるんちゃう。俺らはみんなそうやろ?」
赤鬼は返事の代わりに拳を固めると、右ストレートを打ち込んだ。ポン松がよろめき、赤鬼はぐらぐらと回る頭で考えた。ポン松はやり返すこともしないし、自分の身を守ることもしない。警察が来た以上、手を出せば自分の不利になるだけだと思っているのだろう。
「せめてガードせえや、ポリ来る前に死ぬぞ」
赤鬼がそう言ったとき、ぱちんとプラスチックが弾ける音が鳴り、赤鬼とポン松は同時に音の方向へ顔を向けた。足のタイラップを切った木之元は、言った。
「プラスチックって、意外と切れへんねんな」
青鬼の死体に寄りかかって片足立ちになると、木之元は痛みに顔をしかめながらサイレンの音の方向へ顔を向けた。顔の下半分が血まみれになったポン松が同じ方向を向き、赤鬼は腫れ始めた手を見下ろした。警察が来たら、全てがお開き。お互いに言えないことが多すぎる。今この場にいる三人の中で何の罪も犯していないのは、悪い冗談のようだが、木之元だけだ。
「足、どんな感じですか?」
赤鬼が言うと、木之元は明後日の方向にぶらつく足首を見下ろした。
「分からん。痛い」
「災難やったな」
ポン松が言うと、木之元はうなずき、宙を見上げた。足だけでなく、手を縛るタイラップをガラス片で切るときに手が滑って、両手首はリストカットをした痕のように血まみれになっている。木之元が目線を戻したとき、パトカーのサイレンが止まり、『こっちです!』と案内する若い声が響いた。今まで熱気を帯びていた空気が、お開きになったようにしんと冷えて、ポン松と赤鬼は手錠の感触を思い起こすように自分の手首に目を向けた。木之元は小さく息をつくと、青鬼の手から拾い上げたエアウェイトの銃口を持ち上げた。赤鬼が後ずさり、ポン松が苦笑いを浮かべた。
「キノ、そこまでポリ来てんぞ」
赤鬼はポン松の言葉を頭の中で復唱するようにうなずき、木之元に言った。
「あの、すみませんでした」
「何が?」
木之元は、目の前に誰もいないように、低い声で呟いた。その表情を見てポン松が顔色を変えたとき、エアウェイトをまっすぐ構えた木之元は口角を上げて笑うと、言った。
「何年やろな」
誰にも答えられない質問が宙に浮いたとき、木之元はポン松の頭を吹き飛ばした。自分のスマートフォンを回収すると、小森に『すっぽかしてごめん』とメッセージを送り、エアウェイトを壁に叩きつけるように投げ捨てた。赤鬼が仰向けに倒れたポン松の前で呆然と立ち尽くすのを見ながら、木之元は笑った。
「おれがおらん間、頼むぞー」
銃声が鳴り、警察官四人が火を避けながら集会場の方へ駆け出した。パトカーの傍で路肩に座る川手は、通報者の宮田と雨野が残った警察官に説明する様子を見ながら、思った。自分よりもはるかに年上で、二十代半ばぐらい。二人とも疲れた顔をしているけど、何が起きたかを順序立てて説明している。あの人たちが警察を呼んでいなければ、もっと酷いことが起きていたに違いない。遠くから消防車のサイレンが聞こえてきて、川手は待ちわびたように、音の方向へ顔を向けた。ステップワゴンは誰も手を触れられずに燃え続けている。トラックはすでに真っ黒に焦げていて、その数台先の車は住民が退避させていた。そして川手は、ずっと捕まえている右手が動きそうになるたびに、その顔を見て首を横に振った。隣に座る敦史は、火から全く目を逸らせようとしない。
「ダメですよ」
念を押すように言うと、敦史はその度に諦めたように顔を向けてうなずいたが、放っておいたらそのまま火の中に飛び込むのは想像できた。
「ほっといてくれ……」
敦史は、川手の左手が重なる右手を見下ろしながら、言った。川手は首を横に振った。
「そんなこと、しません」
「殺そうとしたのに?」
敦史が顔を向けると、川手はうなずいた。集会場から逃げ出すとき、橋本は敦史の手を引いた。言葉で聞かなくても、説明はそれだけで十分だった。
「殺せって言われただけですよね?」
もっと、しっかりとした言葉が浮かんだら。川手は歯がゆい思いをしながら、周囲を見回した。こういうときに言葉で助けてくれそうな橋本は『ちょっと外すわ』と言ったきり、なかなか戻ってこない。
橋本はタクシーの中で、翔と初めて旅行に行ったときのことを思い出していた。もう手が届かない未来だけど、あんな旅行に何度行けたのだろう。その度に楽しい思いをして、喧嘩もして。もしかしたら冷却期間を置いたり、倦怠期を迎えたりして。例えば、翔が急にアホ毛を卒業したりとか。それで、家庭を持つ見通しが立ったり。現実世界で消えた火が乗り移ったように、頭の中には無限の可能性が広がっている。でもそれは、逃げ場のない火に囲まれるのと同じだ。
川手が『いつか普通になりたい』と言ったとき、それはいい目標だと答えた。今は他人事のように設定したその目標が、自分にのしかかっている。明日の朝、多分わたしはご飯を食べる。お昼になったらお腹が空くし、夜も同じ。食べて寝て、また起きて。このタクシーが目的地まで走るように、自分も人生が終わる日までは走り続けなければならないのだ。
「すみません、この辺で大丈夫です」
橋本は会計を済ませると、タクシーから降りた。最悪な気分なのは、間違いない。でも同時に、今からやろうとしていることは体に異様な高揚感をもたらしている。橋本はポケットに右手を突っ込むと、レディスミスのグリップに触れた。勝則が投げた先は植え込みの中で、警察が来るよりも前に拾わせてもらった。青鬼がやっていたみたいにシリンダーを開くと、五発の弾が入っているのが見えた。こんな簡単に、人を殺す手段が手に入るなんて。ロッカクの扉を勢い良く開けると、店主が言った。
「あ、今日ねー貸し切りで……、あれ、ひなちゃん?」