Locusts
十五年も前の話。そこから始まったのだが。始まり方も終わり方も、振り返ればよく似ている。ポン松の基準はただひとつ。自分が好き勝手にできるかどうかだ。早川は目を向けて小森の注意を引くと、口を開いた。
「もうちょい、昔話でもかめへんかな?」
チャイムが鳴り、ポン松はソファから体を起こして大きなくしゃみをした。川手と橋本が出て行ってからは静かで、弁当や菓子を広げた匂いがまだ部屋に残っている。その空気を吸い込んだとき、半分眠りかけていた頭が勘を取り戻し、ポン松は立ち上がると、廊下まで早足で歩いた。玄関まで辿り着いてドアスコープを覗き込んだとき、ドアが外から蹴られて内側に埃が飛んだ。ポン松は埃が入り込んだ目を瞬きさせながら、チェーンを外してドアを開いた。
「はる」
呟いたポン松の体を突き飛ばすように押すと、川手は中に入って後ろ手にドアを閉めた。その剣幕にポン松が後ずさると、川手は言った。
「なにがポン松ですか……。変な名前」
「苗字が一本松やからな」
ポン松が言うと、川手は顔をしかめた。そのふざけた態度や何も気にしない大雑把さが凶器に見えるように、俯いたまま言った。
「外で何が起きてるか、知ってますか?」
「ぼちぼち、赤鬼か青鬼が殺しに来るって思ってたんやけどな。何かあった?」
ポン松が言うと、川手は靴を脱いで上がり、部屋に入ってカーテンを指差した。
「橋本さんは、捕まりました。集会場の中です」
「誰に?」
ポン松の表情が険しく変化し、川手はそれがいかに手遅れかということを示すように、目を向けた。
「分かりません。ジャージ着た、私と同い年ぐらいの女の子です。ナイフ持ってて、私も殺されかけました」
ポン松が黙っていると、川手はテーブルの上に置かれたリモコンを掴み上げると、壁に投げつけた。沈黙が流れたときにどうしたらいいか、橋本のアドバイスが頭に呼び出されて、川手は掠れた声で叫んだ。
「なんか喋れや! 橋本さんは捕まったんですよ、彼氏は殺されたし!」
「熊毛が?」
ポン松は、初めて予想外のことを聞いたように目を忙しなく瞬きさせると、ソファにだらしなく引っ掛かった上着を拾い上げて、羽織った。川手はポン松が外に出るつもりだと気づいて、言った。
「ちょっと、洗面所貸してください」
自分の目から涙が流れているのかも分からない。川手は洗面所で鏡の前に立つと、頬に残った涙の跡を拭った。橋本さんを助けに行かなければならない。でも、次に顔を見るとき私がぼろぼろの状態なのは、絶対にイヤだ。三十分も話していないのに、私の心の底にめり込んでいた重りを取っ払って、つい数時間前まで真っ暗に見えていた道に光を当ててくれた人なんだから。
深呼吸をすると、川手は鏡の前から一歩引いた。橋本が『なんか燃やしましたー?』と明るい声で言っていたのが、何年も前のことのようだ。川手はその言葉を思い出しながら、目線を落とした。ゴミ箱には、焦げたフィルムが捨てられている。それを拾い上げようとしたとき、ポン松が覗き込んで言った。
「女子しとんなー」
川手はゴミ箱を指差しながら、ポン松の顔を見て言った。
「これって、フィルムですか?」
「せやな、インスタントカメラの中身」
ポン松は、川手が指した方向に目を向けながら言った。目線を上げて鏡越しに川手の顔を見ると、続けた。
「彼女に金持って行かれたって話、してたやろ。その子が写ってんねん」
焦げたフィルムの中に本人がいるように、川手はゴミ箱を見つめた。
「そのために帰ってきたんですか? 逃げられたのに?」
「面割れたら、死ぬまで追われるやろ。逃げられたんは頭に来るけど、どっかで幸せに生きててほしいってのもあるからね」
ポン松は当然のことのように言うと、カーテンの隙間から集会場を見下ろした。
「橋本に手出すとはな。何人ぐらい?」
「私が見たんは、そのナイフ持った女の子と、その兄っぽい男の子です。あと、おじいちゃんもいました。他にもおると思います」
川手が言うと、ポン松は小さく息をつき、拳を固めた。
「終わらそか―」
橋本は目の前で繰り広げられている光景を、妙に一歩引いた目線で見ていた。そこには自分の背中も含まれていて、まるで幽体離脱したように感じる。今は、青鬼だけでなく、キノですら衝撃を受けている様子だ。手引き役の大元は、本剛団地の顔役であるはずの早川。約束事や信頼関係に絆といった綺麗事は、この場では全部無効だ。少なくともこの変な四人家族の前では。
本剛団地は、早川が我が物で歩いて睨みを効かせ、面倒なことが起きたらポン松が話を聞いて解決策を編み出し、キノが実際に人を殴り、赤鬼と青鬼が蜂のようにパトロールすることで治安を守ってきた。理屈では否定していたし、口に出して馬鹿にもしていたけど、心のどこかに、翔がこんな風になれたらと憧れる気持ちはあった。それはわたしのためじゃなくて、翔が本気でこの世界に憧れていたからだ。それを許せるだけの心が自分にはあったし、翔が先輩方のエピソードを嬉々として話す姿を見ているのは好きだった。そして、その内容で共通していたのは、先輩方の『ガラは悪いけど、外から入ってくる輩を追い返す番犬のような存在』というイメージだった。
そんな番犬二人が今、わたしと同じようにタイラップで動きを封じられている。話の内容は嫌でも耳に入ってくる上に、中身はすっからかんだ。三千万円の話を延々と話しているだけで、この四人家族も痛めつけることが目的みたいに時間をかけている。そして、今青鬼がぺらぺらと話しながら確認しているのは、この四人家族がいくらで雇われているかということ。つまり、この場を五体満足で立ち去るための『料金』を確認しているのだ。キノは止めることもなく、青鬼が話すのを無表情で聞いているだけ。翔が憧れていたのが、こんなしょうもない奴らだったなんて。橋本は宙を見上げながら耳を塞ぐものを探したが、両手の自由が利かないからどうしようもなかった。
勝則は橋本の方を一旦振り返ると、青鬼の方に向き直って、言った。
「橋本さんが呆れとるぞ。アホやなーって」
「なんぼで雇われてんねん、それを教えてくれ」
青鬼が繰り返すと、勝則は無視して立ち上がった。コンビニの袋を探っている真希子の傍へ行き、小声で呟いた。
「腹減ってんのか?」
橋本のスマートフォンを片手に持つ真希子は首を横に振ると、不思議なことが起きているように中身を眺めながら小声で言った。
「プリンやけどさ、なんで三つ入ってんのかな?」
勝則は橋本のスマートフォンを受け取り、中身を見ながら言った。
「瑠奈も連れて、行ってこい」