Locusts
橋本は、敦史の手元に渡ったスマートフォンに目を向けた。機械のように画面の上を行き来する目は鋭く、体格は中学生ぐらいなのに子供には見えない。勝則が青鬼と木之元を見下ろして、『ポン松をどうやって迎えに行くか』という話に戻ったとき、敦史の目の色が少しだけ変化して指の動きが速くなったことに、橋本は気づいた。不意に目が合ったとき、敦史の突き刺すような視線が少しだけぐらついた。橋本が何も言わずにいると、敦史は銃把が直撃した頭頂部を庇いながら立ち上がり、勝則にスマートフォンを差し出した。
「位置情報とかは切っといた」
「サンキュー」
勝則は橋本のスマートフォンを受け取り、しばらく中身を見ていたが、やがて興味をなくしたようにテーブルの上に置いた。橋本はその指の動きで確信した。敦史は、翔とポン松のやりとりを、画面上から消したのだ。エレベーターの前で言われた『来てください、絶対に殺させませんから。ほんまにすみません』という言葉。あれは本当で、敦史だけがそのつもりなのかもしれない。橋本がもう一度目を合わせると、敦史は橋本の頭の中を読み取ったように、目線の動きだけで応じた。そのとき、自分のスマートフォンがポケットの中で震え、敦史は瑠奈から届いたメッセージを眺めた。
『おっちょこ丸、手伝ってよ』
敦史は立ち上がると、勝則に言った。
「手折れてて、しんどいらしい。手伝ってくるわ」
「いってらー。掛井さん一緒に連れてってや」
勝則が手を振って見送り、敦史は掛井を連れて外に出た。ひとりで送り出されるほど、信用はされていないらしい。しかし、つい数時間前にレストランで『おっちょこ丸』と言われたばかりだ。それをわざわざメッセージに書いてくるということは、何かがある。ステップワゴンに向かって歩き出したとき、レストランでこぼしたお冷を拭き上げてくれた店員が瑠奈と話していることに気づいて、敦史は足を緩めた。瑠奈が振り返り、敦史の隣に立つ掛井に気づいて唇を固く結んだ。レストランの店員はもうひとりいて、レジを担当してくれた女の人だった。全員の目が向き、敦史は引き返すわけにもいかず、元の歩調を取り戻して輪に加わった。
「兄ちゃん、宮田さんと雨野さん。指輪拾ってくれてんで」
「あ、ありがとうございます」
敦史は小さく頭を下げると、瑠奈が中指から抜いた指輪を手に持った。宮田は半歩後ろに立つ掛井に気づいて会釈すると、敦史に言った。
「気づくの遅くなってごめんね」
敦史と瑠奈は目を合わせた。瑠奈の抗議するような目は、はっきり伝えている。『逃げるチャンスが欲しかったんじゃないの?』と。
「ありがとうございました」
敦史がそう言って宮田と雨野の二人に頭を下げる様子を見ながら、掛井は記憶を呼び起こした。今は背中を向けているが、かつて面と向かって、こうやって頭を下げられたことがある。色々なギャンブルに浸かってきたし、独り身になった今は自傷行為のように悪化しているが、人生を通して一番酷かったのはパチンコだった。生活費を吸わせて借金が首を締め始めても悪癖は追い払えず、四十五歳のときに、息子の志望校に納める学費を使い込むという最悪な形で結末を迎えた。公立高校に入学したことで息子は無事高校生にはなったが、掛井は残された借金と共に自身を家庭から切り離した。最後にパチンコ屋に出向き、顔見知りの店員に『もう来ません、どうもありがとうございました』と言ったとき、今の敦史と同じように、その店員は『ありがとうございました』と頭を下げた。その続きは言葉になることはなかったが、想像はついた。
『ご自身のためにも、もう来ないでくださいね』
おそらくあの店員は、心の中でそう言ったのだと思う。
敦史がダッフルバッグを持って、瑠奈がステップワゴンの鍵を閉めたとき、掛井は一歩前に出て、宮田と雨野に言った。
「あの、親切にありがとうございました。瑠奈の手を見てもらったら分かると思うんですが……、今ちょっと揉めてまして。あの集会場の中で色々と起きてます。お二人の身も危ないんで、できるだけ離れてから警察に通報してもらえませんか」
そのはっきりとした口調に、敦史と瑠奈は顔を見合わせた。宮田はその言葉を一字一句受け止めたように、鋭い目を掛井に向けたままうなずいた。
「承知しました。雨野、一旦離れよか」
二人が自転車で引き返していくのを見ていた瑠奈は、掛井に言った。
「いいんですか? カツはサイレン聞こえた瞬間、撃つかも」
掛井はうなずいた。あの狂った黒縁眼鏡なら、そうするだろう。手当たり次第に乱射して、あの中にいる人間は全員死ぬかもしれない。敦史と目が合い、掛井は念を押すように言った。
「サイレンが聞こえたら、まずはあいつから離れなあかんぞ」
敦史はうなずいた。まずは道具を持って戻らないと、この状態で逃げても追いつかれるだけだ。瑠奈は表情だけで同意を示すと、集会場を振り返って呟いた。
「戻ろう」
赤鬼は三回目の挑戦でようやく正しい感触を掴み、できるだけ静かにシリンダーへ力を込めた。差し込んだピッキング用の針金に合わせて鍵がゆっくりと回り、開錠されるときの小さな金属音が鳴った。次は、静かに開けなければならない。裏口のドアは地面から伸びた雑草が絡まっていて、ヒンジも錆びついている。赤鬼は額に浮いた汗を手の甲で拭うと、ドアノブに手をかけてゆっくりと引いた。青鬼がいつもやっているように引っ掛かりを感じたら一度止めて、体が通るだけの隙間が空いたらすぐに入る。閉じるときは逆の手順。赤鬼は、開いた隙間から中を覗き見た。集会場の電気は正面入口の方だけを照らしていて、裏口側は真っ暗だ。得られる情報は音だけで、中では勝則が何かを話している。
足を差し込んで床に何も落ちていないことを確認すると、赤鬼は少しだけ大胆にドアを開いて中へ滑り込んだ。ドアを閉めても会話は止むことがなく、勝則の相手は橋本のようだった。赤鬼はスタンガンを左手に持つと、ほとんど使われることのないホワイトボードや余ったテーブルの陰に隠れて、様子を窺った。正面入口までが見通せる位置まで首を伸ばすと、両手両足を縛られて地面に座る木之元と青鬼が見えた。青鬼の右手は血まみれで、手の形がいびつに見える。勝則は同じように自由を奪われた橋本と話しているが、その背中は完全に別人で、今までに見たことのあるどんな人間とも違う冷気を放っていた。真希子は、瑠奈の手と敦史の頭の様子を見ながら、二人を慰めるように笑顔を作っている。掛井はいつもの呆けた表情に少しだけ険しさが戻っていて、赤鬼は気圧されるように顔を引くと、ホワイトボードの裏に体を引いた。キノがいて、こんなことになるとは。しかし、寸胴屋が普通の四人家族みたいな格好をしているなんて、誰も想像しない。
勝則が気合いを入れ直すように手を数回叩き、乾いた音を鳴らした。木之元がうんざりしたように顔を上げ、青鬼は右手の痛みで表情を作る余裕がないまま、勝則の目を見返した。