Locusts
三
防犯カメラの映像を巻き戻すだけで、店長は一生分の面倒な仕事をひと晩に押し込まれたような、疲れ切った表情を浮かべた。シフトは完全に入れ替わり、このまま深夜二時まで続く。宮田は白のステップワゴンを指差した。
「これが、掛井さんの車です」
到着した警察官は二人。時々暴れる客がいるから、通報があるといつもパトカーで現れる。宮田は、動物のドキュメンタリー番組を見るようにカメラの映像を眺める警察官二人の顔を見た。
「来店したときですね」
「はい、なるほど」
警察官のひとりが店長に目配せしていて、その内容は雰囲気で分かる。勘弁してくれと言っているのだ。指輪をじっくり観察した方は受け取ることすら面倒なようで、テーブルの上に置かれたそれを腕組みしながら眺めていた。
「まあ、指輪は拾得物として手続きはできますけど。客の忘れ物やったら、お店で持っといてもらったほうが……」
宮田の隣に立つ雨野が、指輪の内側を指差した。
「それ、血ですか?」
厄介な人間が増えたように、防犯カメラを見ていた警察官が顔を上げた。
「その、お客さん? がそれを入れたとするじゃないですか。それは、どういうことなんやろ。通報してほしかったってことかな?」
雨野は宮田の顔を見たが、宮田は同じ行き止まりに辿り着いたように、首を傾げた。警察官二人は結論が出たように目を合わせると、店長に言った。
「一周してきます。あの辺は揉め事も派手なんで」
指輪をテーブルに置いたままパトカーが駐車場から出て行き、店長は面倒から解放されたように小さく息をついた。
「考え過ぎちゃうかー?」
「やったらいいんですけど」
宮田はシフト終了から三十分が経った店内を見渡しながら、言った。雨野は壁にかかった時計を見上げて、呟いた。
「着替えてきます。お疲れさまでした」
その言葉が合図になったように、宮田は更衣室まで戻ってドアを開けかけたが、カメラ室に戻って指輪を回収した。駐輪場で雨野と合流したとき、宮田はスマートフォンを取り出しながら言った。
「遅くなったな、ごめん」
「全然いいっす」
雨野は自転車にまたがって、ハンドルにもたれながらスマートフォンを眺めていたが、地図を表示して宮田に見せた。
「今日、ここどうすか?」
宮田は地図の形を見て、すぐに顔をしかめた。雨野が選んだレストランは、本剛団地を抜けた先にある。
「おれの話、聞いてました?」
「聞いた上での、提案でございます」
雨野はスマートフォンをポケットに戻すと、宮田の顔を見上げた。
「大人になったら、なんてことない場所かも」
「まあ、そうやな」
宮田はそう言うと、自転車のスタンドを下ろした。前を通過するだけだ。団地がある側ではなく、反対側を通り抜ければなんてことはない。自転車を漕ぎ始めてしばらく経ったとき、雨野は言った。
「あの指輪、持ってきました?」
「持ってきたよ」
宮田は短く答えると、その場所を示すように上着の右ポケットに視線を落とした。雨野は軋むペダルに力を込めながら、言った。
「仮に、四名の掛井様が落としたとするじゃないですか。なんやと思います?」
「分からん。分かる?」
宮田が首をかしげると、雨野は前を向いたまま全く同じ仕草で首を傾げた。
「いや、わたしも全然分からないんですよねー。でも、家族の持ち物ちゃうでしょ多分。あー分かった。シリアルキラーやわ。もうね、どの指輪が誰のか分からんぐらい、殺しまくってるんです」
「何を言うてんねん」
宮田が笑うと、雨野は笑いながら対向車線を走る車を指差した。それが通報で店に来たパトカーであることに気づいて、宮田は顔をしかめた。雨野は、宮田よりもやや険しい表情で呟いた。
「一周すんの早すぎ、もう戻ってきたし。今週末ってどうしてます?」
「今、話題切り替わった? 空いてるけど」
宮田が訊くと、雨野はうなずいた。
「国際展示場で就職説明会的なやつあるんですけど、いこかなと思ってて」
自転車を漕ぐという作業があるから、言葉は簡単に飛び出した。雨野がペダルに込めている力に意識を向けたとき、宮田は言った。
「横で雨野のアピールしよか?」
「自分をアピってください」
雨野はそう言うと、宮田の横顔をちらりと見て笑った。二週間も前からどう言おうか考えていたのに、こんなに簡単なことだったなんて。
橋本の家。川手は六〇五号室の中で、廊下にへたりこんだまま頭上の蛍光灯を見上げていた。内鍵を閉めて廊下の電気を点け、靴を脱ぐところまではできた。廊下に踏み出したところで足から力が抜けて、動けなくなってしまった。階段を全力で上がった反動で、心臓はパニックを起こしたように血を体に送り出している。でも、自分の体がどうなっているかなんて、そんなことを確認している場合じゃない。橋本は紺ジャージの少女とその仲間に捕まり、集会場の中へ連れられて行った。外の通路に伏せるように隠れてその様子を見ていたときまでは、体中がバネになったように力が漲っていた。
でも、部屋に入って安全な空間に囲まれた瞬間、これだ。身を挺して逃がしてくれた橋本と比べると、あまりにも情けない。一分も無駄にできないはずなのに。川手は深呼吸をすると、いつも通りの動きで肩に手をやった。紐を掴もうとした手が滑り、そこでバッグが手元にないことに初めて気づいた。投げたのだから、当たり前だ。今は、紺ジャージの少女の手元にある可能性が高い。そして、スマートフォンはその中だ。絶対に身の回りにあるものが、手元にない。それが足を動かすだけの最低限の燃料になり、川手は壁に掴まりながら立ち上がった。
六〇五号室の廊下はシンプルで、余計な物は何も置いていなかった。靴はスニーカーやバッシュが何足か並んでいるが、靴箱の上に置かれた写真立ての中身は実際の写真ではなく、サンプルの風景写真のままだ。川手は廊下を通り抜けて狭いキッチンを抜け、居間に入って電気を点けた。固定電話は見当たらない。自分の家にも固定電話はないし、橋本が固定電話を耳に当てている様子は、想像すら難しかった。ふと、エレベーターで話していた橋本の横顔が頭に浮かび、足を動かす燃料が尽きたように、川手は居間の真ん中に腰を下ろした。
ぼんやりと照らすLEDの少しだけ黄色っぽい光と、綺麗好きな人間といい加減な人間が戦争をしているようなベッドの掛け布団。こたつ布団は脇にどけたけど、どうしても片付ける気にはなれたかったのか、人が寝転がった跡が残っている。リモコンの置いてある角度や、洗濯物が吊られて傾いたハンガー。買い物や用事を済ませて、数時間で帰ってくる予定だったのかもしれない。
橋本は、あの殺された人と一緒に、ここに住んでいたのだ。
「そんなん、ひどい……」
川手は思わず拳を固めた。握り潰せるものがあれば良かったが、人の家にそんな贅沢品はない。家出しようなんて思わなければよかったし、美沙希先輩に具体的なやり方を聞かなければよかった。そして、自分がポン松を頼らなければ。最初に『三駅戻る』と言われた時点で立ち去っていれば。