Locusts
その言葉には現実感がなく、部屋の隅からスピーカーで再生されたように宙に浮いたままになった。ポン松は小さく咳ばらいをすると、言った。
「さっき廊下におった青鬼ってのは、C棟に住んでてな。地べたを見張ってる奴らやねん。駅におった兄貴は、赤鬼。本来、よその建物の中には入らんのよ」
川手は直感に背中を押されるように少しだけ猫背になると、言った。
「あの、もしかして。狙われてます?」
「うん、ひとりやったら青鬼に剃刀でスパーンっていかれてたやろね。君がおったから、五体満足で部屋に入れた。サンキューやで」
川手がソファから腰を上げようとしたとき、ポン松は首を横に振った。
「ちょっと今はやめとき。いずれは帰れるから」
川手は、自分の行動を巻き戻すようにソファへ腰を下ろした。ポン松は自分をこの異常な状況に巻き込んだ張本人だが、少なくとも今の状況を把握しているように見える。質問をすれば、真面目な答えが聞き出せるかもしれない。そう考えた川手は、言った。
「何をしたんですか」
ポン松は気まずそうに肩をすくめた。
「元々は、赤鬼と青鬼ってのは仲間やってんけどな。まーちょっと、金で揉め揉めしてね。あいつらも上との板挟みやから、必死なんよ。俺がその金欲しい! ってなってもうたのが悪いんやけど」
「いくらなんですか?」
「三千万」
ポン松は話のオチのように言い、歯を見せて笑った。川手は埃まみれのソファが唯一の味方であるように、体を深く沈ませた。
「何してるんですか……」
「色々あんねん。青鬼がそこまで来てたんはな。今晩に限って、仕切りがおらんからなんよ。おれとタメで早川ってんやけど、こいつがいわば、この界隈のリーダーみたいなもんでさ。勝手に持ち場から離れた奴はバチボコにシバかれるようになってる。キノってのは、早川の右腕で俺の代理。てかさ、自分めちゃくちゃ喋りやすいな? 何でも言うてまうわ」
「どうも……。その早川って人は、どこにおるんですか?」
川手はそう言いながら、会話を進めるにつれて自分が見ず知らずの団地に取り込まれていくように感じ、バッグの紐を固く握りしめた。美沙希先輩から聞き出して予習したところが、ひとつも出てこない。これは一体、何なの?
ポン松は川手の目をまっすぐ見返しながら、言った。
「急遽、雑誌の取材を受けるらしい。アウトロー系で売っとるからね。格闘技のイベントとか顔出しとるし、自分も見たら分かるかもしれんで」
ポン松がジーンズの後ろに手をやり、川手は早川の写真がスマートフォンから出てくるのかと思って構えたが、ポン松は尻を掻いただけだった。川手が呆れるだけの余裕をどうにか表情へ出したとき、ポン松はひと仕事終えたように大きく息をついて、言った。
「はる。とにかくや、そんな感じやから。俺は一カ月ぶりにここに戻って来れたんで、目標は達成できた。ただ、金額が金額なだけに、連中も何をしでかすか分からんから。今すぐ外に出るのはやめとき。な?」
川手はうなずいた。生活感を残したまま遺棄された部屋に説明がついたことで、少しだけ頭の中が冴え渡ったように感じる。考えるだけの余裕が生まれて初めて、気づいたことがあった。このソファは、ひとり暮らしには大きすぎる。誰かと住んでいたのだろうか。
「ここに戻ってくるって。それだけが、したかったんですか? 私と待ち合わせしたんも、誰も手を出さへんからって、ただそれだけの理由で?」
「そうやな。まあ忘れ物ってか、後始末的な」
ポン松は言い終わるのと同時に、顔をしかめた。ここまで一気に、駆け抜けてきた。早川はさっき連絡がついた。『キノ』こと木之元はいつも隣にいるから、おそらく一字一句逃さず聞き取っているだろう。しかし、他は? 味方が誰なのか、全く見当がつかない。確実に味方と信じられるのは、B棟の六〇五号室で彼氏の熊毛と同棲する橋本ひなた。熊毛は顔を合わせればチャースチャースと二回頭を下げて挨拶してくるだろうが、真意は読めない。後の面子は、言葉の代わりに拳が飛んでこなければ、とりあえず敵でない可能性が高い。
川手が自分の方をずっと見ていることに気づき、ポン松は苦笑いを浮かべた。
「つーか、玄関でバイバイするつもりやったから、コーヒーもあらへん。喉とか乾いてないか?」
赤鬼と呼ばれるようになったのは、同じ背丈に坊主頭という共通点を持ちながら、怒ったときの反応が双子であまりにも違うからだった。静かに青ざめた顔で怒りを表現する弟が青鬼なのに対して、ゴミ箱から通りすがりの人間まで全てに八つ当たりする兄の自分が赤鬼。名づけたのは早川で、それ自体が今から五年前の話。双子なので当たり前だが、同時に十六歳になったばかりだった。家村という苗字はあるものの、あだ名が次第に勢力を強めていき、高校を辞めるころには誰も本名では呼ばなくなっていた。そして、順調に鬼に相応しいエピソードが増え続けて二十一歳になった。先輩方によく比較されるのは頭の出来で、青鬼に比べると赤鬼は相当見劣りする。早川にその理由を訊かれたとき、一緒にいた青鬼は『生まれる前に、兄貴の首を締めとったんかもしれないです』と言った。早川、ポン松、キノの三人全員が笑ったから、その切り返しは合格だった。
そんな風に、力担当の自分と頭脳担当の弟で随分と上手くやっていたが、ここ一カ月は、人生最大の危機に陥っている。青鬼の手元から、三千万が消えたのだ。ここ数カ月で捌いた『薬代』で、現金化するのが一日早かったというポカこそあったものの、そこを狙い撃ちするようにまんまと盗られた。すぐ真横で、現金の入ったバッグを眺めていたポン松に。
今となっては、青鬼がどうして単独で話を進めたのか、それすら腹が立つ。耳に入ったのは取引が進み始めてからで、すでにポン松は仲間入りしていた。だから、この件と自分の接点はただひとつ、青鬼と兄弟だという点だけだ。そして、さらに悪いことに、青鬼は早川とキノに話を通していない。つまり、耳に入ればルールを破ったこちら側に拳骨が飛ぶ。しかし、早川のやっている『ままごと』についていっても、金にはならないのは確かだ。動画配信にアウトロー系雑誌の取材、良く分からないメディアに登場したり、『連れ』のミュージックビデオに顔を出したり。もちろん今でも、あちこちに刺青が入ったその見た目で、ほとんどの人間は道を空ける。しかし、昔ながらの揉め事には若干飽きが来ているような感じもある。そういう類のトラブルが好きなのは、一番弟子のキノだ。早川と違って、見た目は全く印象に残らない。色落ちしたグレーのウィンドブレーカーにブルージーンズがトレードマーク。しかし、キノは基本的に場を収めない。散らかったテーブルをひっくり返すように、突然誰かの顔に鉄拳をお見舞いする。ポン松が消えてからは実質的にキノがそのポジションを埋めているが、早川とは水と油のような性格でいながら、歯車として上手く噛み合っている。
だからこそ、早川の耳に入れば、必ずキノまで話が通る。早川だけなら、周りの目があるところでシメられるだけで、不問に処される可能性が高い。しかし、早川の前で大人しくしているキノが、周りの目がないところで何を思いつくか。そんなことは想像もしたくない。