Locusts
一
夕方六時。駅構内の天井に、規則正しく並ぶ蛍光灯の灯り。川手陽菜は、その中で疲れ切ったように点滅する一本を見上げた。自分だけ寿命が来て、周りに合わせる顔なんかなくて、恥ずかしいに違いない。それにしても。
こんな、とんとん拍子で進むものなんだ。
母の友達の友達、新しい彼氏、同棲相手、内縁の夫、私の継父。すごいスピードで、どんどん入り込んできた、知らない男。本当の父親は私が十歳のときに離婚していなくなった。母や私にとって、男は太い腕で車のハンドルをぐるぐる回したり、重い荷物を持ったりするだけの存在、つまり替えが利く。だから私も同じように、今日は知らない男を頼ろうとしている。母と同じように、とんとん拍子で。
メッセージで事情を聞いてくれた男は、三十歳らしい。私は十四歳だけど、あまりに子供だと相手にされないと思って、咄嗟に十七歳と誤魔化した。家にはいられないと愚痴ると、その返信はすでに本題だった。
『じゃあひと晩ウチ来る?』
本当に短いやり取りで決まった。この手のことに詳しい美沙希先輩は、写真くれって言われても簡単に送ったらダメと言っていた。しかし、相手が目印を伝えてきただけで、私の特徴を聞いてくることはなかった。
待ち合わせの時間が目の前に迫る今は、ずっと頭に抱えてきた川手家に対する黒い感情が一歩後ろに引いて、また見向きされるのを待っている。わたしといる方がマシだったよね、と。私の頭は、怒りだけじゃなくて後悔もよく食べる。全てから目を逸らし続けていると、ほとんど地面しか見えない視界の中をシルバーとピンクのスニーカーが通り過ぎて、しばらくしてから戻ってくると止まった。ホームセンターの袋を片手に持っている以外は、事前に聞いていた目印の通り。
「おー、とりあえず一個目のステージはクリアやな。ポン松でーす」
ポン松さん。メッセージではそうやり取りしていた。実物は見上げるぐらいに背が高くて、髪はボサボサだった。
「川……。いえ、はるです」
「苗字言いかけとるやん、危ない」
ポン松は笑うと、駅の看板を指差した。
「こっちまで来てくれてなんやけど、三駅戻るんよ、ごめんなあ」
いきなり、話が違う。でも、そういうものなんだろう。川手は、ポン松の隣りを歩き始めた。まあ、家出というか、殺されに行くというか。ポン松は川手に歩く速度を合わせながら、言った。
「メシとか食うてる?」
「はい。あの、ポン松って名前以外に、呼び名はないですか?」
「あー俺な、一本松って苗字やねん。そんなん、ポン松以外なくない? 一本マの方がええかな?」
川手は、ぺらぺらと話すポン松の横顔を見ながら思った。軽い。そして、目が全く合わない。美沙希先輩は見てくる感じでヤバい奴か分かると言っていたけど、これでは何も分からない。三駅分の移動を無言で過ごし、ポン松指定の駅で降りたとき、改札の近くで原付にまたがる男と目が合って、川手は目を逸らした。原付の男も俯き、スマートフォンを取り出すと青白い画面を覗き込みながら両手で何かを打ち始めた。
飲み屋の入口でふらつく客や、クラクションの音。遠くで怒鳴り合う声。その空気の悪さに、川手がポン松の後ろに隠れるように歩いていると、銀色の車が追い越していった。中の二人は両方ともこちらを見ており、それからも人と目が合う度に、川手は心臓を素手で絞られたように感じた。そんなに違和感ある?
それとも、このポン松って人が有名人なの?
怪獣がもたれかかったみたいに折れ曲がったフェンスや、タイヤのない車。さっき遠くで聞こえていた怒鳴り声が、今はすぐ近くで聞こえている。『A棟』と書かれた団地の中に入り、注意書きで埋め尽くされた掲示板を見ながら、川手は思った。知らない世界だ。ルールを守らないから、張り紙が増えるのだろう。もはや、その段階を超えてしまっているのかも。『郵便受けの下に荷物を置いた場合、即廃棄します』という張り紙の下に折れ曲がった三輪車が転がっていて、その時点で書いた人の言う通りにはなっていないのだから。
エレベーターで九階まで上がり、ポン松は九〇一号室の鍵を開けた。表札には赤いマジックで『殺殺殺』と書かれていて、真面目に名乗る気はないらしい。川手が上着の裾を握りしめたとき、まだ通路に立っている自分の目の前でドアが閉まりそうになった。咄嗟に掴んで引き開けると、玄関で靴を脱いだばかりのポン松は言った。
「ほな、お疲れさん。気つけて帰りや」
「え、今晩泊めてくれるって……」
呟くように川手が言うと、ポン松は初めから家に招き入れる気などなかったように、他人を通り越して敵のように鋭くなった目を向けた。
「いーや、家出なんかしたらあかん」
川手が思わず姿勢を正したとき、ポン松はドア越しに外を見て、顔をしかめた。川手は振り返ろうとしたが、ポン松に手を引かれて段差につまずきながら玄関へ上がった。
「ちょっと……」
川手の抗議は素通りし、返事の代わりにポン松の手が半開きになったドアにかかった。シャッターのように玄関のドアが閉められる直前に振り返った川手は、男がエレベーターホールに立っているのを目に留めた。駅で見かけた原付の男ではないが、その顔つきはよく似ている。
「つけられてます? 駅にもいましたよね?」
川手が訊くと、ポン松はうなずいた。
「前言撤回、しばらく一緒におってくれ。駅におったんは双子の兄貴や」
川手はバッグを胸の前に抱えると、埃の浮いたソファに腰掛けた。全体的に、うっすらと汚れている。ポン松はスマートフォンを取り出すと、ヒビが無数に入ったガラスフィルムをこつこつと指で叩いた。頭の回転を限界まで速める儀式のように、その仕草を一分ほど続けた後、ようやく電話を掛けた。
「青鬼がA棟の中まで入ってきてんねんけど。ええん?」
川手は腰を少し浮かせると、ソファの埃を払った。テレビのリモコンはすぐ手に取れそうな位置に置いたままで、野生動物が歯を立てたように引きちぎられた封筒からは中身が少しだけ覗いているし、その隣にはフィルム式のインスタントカメラがひとつ。生活感がないわけではなく、住人が用事の途中で突然出て行ったようだ。その住人に違いないポン松はスマートフォンを耳に挟み、短い相槌を打ちながらインスタントカメラを手に取ってうなずいていたが、飽きたように小さくため息をついた。
「ほんまかいな、お前ここにおらんの? ほな、なんのために前もって言うたんや。キノも一緒か、はいはい。え? せやな。お久しブリブリやな。ほなな」
ポン松は一方的に通話を切り、ホームセンターの袋を中身ごと洗面所へ放り投げると、フローリングの床に腰を下ろした。川手はソファに座ったまま、言った。
「あの、青鬼って何ですか? そういう名前なんですか?」
「自分なあ……、ほんまはいくつよ」
ポン松は胡坐をかいて、乱れた髪を後ろへならしながら言った。川手は口を開く前から声が掠れていることに気づいていたが、呟くぐらいの声量で言った。
「十四です」
「はー、マジか。まあ、子供の方がええか」
川手が本能的に顔をしかめたとき、ポン松は呆れたように笑った。
「いや、さすがに連中も女子供は殺さんやろから」