Locusts
川手は、橋本が送信ボタンを押すのと同時に、すぐ近くでほら貝のような着信音が鳴ったことに気づいた。切れかけた蛍光灯が点滅していて、自分の都合を押し通すように、断続的に廊下を照らしている。
「橋本さん」
川手は、橋本の細い腕に触れながら言った。スマートフォンから顔を上げた橋本は『帰ってきてる?』と続けて打ち込み、周囲を見回しながらメッセージを送信した。川手は同じ着信音を聞き、確信して後ろを振り返った。同時に橋本も気づいて、顔をしかめた。
「翔?」
橋本は通話ボタンを押し、耳に当てた。川手は階段の前を通り過ぎるとき、自分と同い年ぐらいの少女が踊り場から見下ろしていることに気づいた。熊毛が設定したきり戻せなくなった着信音が連続で鳴り響き、一階の廊下まで行き過ぎた橋本は、掃除用具入れに目を向けて言った。
「え、この中?」
川手が扉をノックして、その礼儀正しい仕草に橋本は笑った。
「掃除用具入れやで」
ドアを開いて、熊毛が仰向けに倒れていることに気づいた橋本は、無意識に電気を点けた。暗い場所が苦手なはずなのに仰向けに寝るなんて、まるで我慢比べをしているみたいだ。
「翔?」
蛍光灯が点灯するのと同時に橋本が呼びかけたとき、川手は橋本より一歩後ろに立っていたが、橋本の立つすぐ下に敷き詰められたタオルが血で真っ赤になっていることに気づいて、口元を覆った。
「橋本さん! 血が!」
「え?」
橋本は振り返ろうとしたとき、無意識に足で真ん中のタオルを蹴飛ばし、血で滑って真横に尻餅をついた。熊毛の顔から完全に血の気が引いていることに気づいてよろけながら立ち上がり、川手がその体を支えたとき、全身の感覚が突然戻ったように橋本は首をすくめた。
「なんで……?」
呟きながら、橋本は熊毛の胸の上に置かれたコンビニの袋を拾い上げた。
「翔……、待ってよ」
川手はほとんど冷気のような気配を感じて、掃除用具入れから出るなり階段の踊り場に目を向けた。紺色のジャージを着た少女がまだ立っていて、さらに奥から制するように伸びる別の手を振り払うと、会釈するように小さく頭を下げた。その右手にナイフが握られていることに気づいた川手は、掃除用具入れの中に飛び込んで橋本の手を引いた。
「ヤバい、橋本さん。ヤバいヤバい!」
橋本は、手だけを引っ張られて足がついていかずにバランスを崩した。両手を地面に着いたとき、階段を二段飛ばしで下りてきた瑠奈の振ったナイフが頭の上を掠め、川手は瑠奈の手めがけて自分のバッグを投げつけた。その甲高い音で我に返り、橋本は立ち上がりながら川手の背中を押した。
「逃げて!」
橋本と川手は廊下に飛び込んで、非常灯が照らす反対側の端を目指した。緑色の光に向かって全力で走り、川手は橋本が階段室のドアを開けるのと同時に、後ろを振り返った。緑色に光る廊下を駆けてくる瑠奈が見えたのと同時に橋本に手を引かれ、川手は階段を駆け上がった。二階まで辿り着いたとき、遥かに速いペースで迫ってくる足音を聞いて、橋本は上着のポケットから鍵を抜くと、川手に持たせた。
「わたしの部屋、覚えてる?」
川手がうなずくと、橋本は階段室のドアを外に開いた。
「行って!」
川手が廊下を全力で駆けていくのを見届けた橋本は、開いたままになったドアの裏に回り、瑠奈の足音が目の前へ迫ったタイミングでドアを力任せに蹴って閉めた。瑠奈の手首がドアに挟まって骨の折れる音と共にナイフが飛び、悲鳴が上がった。
「いったぁい!」
その声の幼さに、橋本は全身に寒気が通り抜けるのを感じた。手が引っ込められて、ドアが完全に閉まるのと同時に足音が慌ただしく下りていき、橋本は瑠奈が落としたナイフを拾い上げると、廊下を走り始めた。川手がエレベーター横の階段を上がっていく足音が聞こえて安心したとき、橋本は階段の手前で掛井と鉢合わせして思わず悲鳴を上げた。掛井の顔を見るのと同時に、スーパーの袋とコンビニの袋を重ねて握りしめていた手から力が抜けて、もう片方の手からはナイフが滑り落ちた。殺されないために封じ込めていた感情の栓が抜けたように、橋本は泣き出した。
「掛井さん……、翔が」
「翔くんが、どないしたんや」
掛井は顔色を失ったまま橋本の顔を覗き込んだが、敦史と瑠奈の両方がいたことを頭の中で結び付けて、橋本の口から聞くまでもなく何が起きたかを理解し、目を伏せた。同時に敦史が階段を上がり切って、言った。
「瑠奈は?」
橋本は掛井と敦史を交互に見て、口を開こうとしたが言葉が出ず、説明を求めるように掛井の顔を見つめた。行き過ぎたエレベーターが再び下りてきてドアが開き、掛井はそれが合図になったように言った。
「ひなちゃん、ごめんな」
エレベーターから降りてきた瑠奈は、真っ赤に変色した右手を庇いながら叫んだ。
「こぉの金髪! 絶対殺す!」
敦史が間に入り、同時に橋本の腕を掴んで関節の方向と反対に捻り上げた。骨が軋んで橋本が悲鳴を上げ、敦史はそのままエレベータ―へ橋本を押し込みながら言った。
「来てください、絶対に殺させませんから。ほんまにすみません」
掛井は、自分が瑠奈を止める役割を与えられたことに気づいて、なだめるように両手を差し出した。瑠奈は自分のナイフを拾い上げ、苛ついた様子で掛井の後ろに回ると体当たりでエレベーターに押し込んだ。
「キョンシーの真似してる場合ちゃうわ。あーもう、手めっちゃ痛い!」
勝則は、タイラップで木之元の両手両足を縛りながら言った。
「なんで帰ってきたん。責任感? 愛?」
木之元は、勝則の顔を見上げた。事情を深く知っていないと、出てくるはずのない言葉だ。
「お前……、一体誰やねん」
「寸胴屋やって、さっき言いましたやん」
勝則はそう言うと、青鬼を手際よく縛り上げた真希子に言った。
「そいつ、こっち連れてきて」
真希子は青鬼の足首を片手で持つと、顔色ひとつ変えることなく引きずって木之元の隣に転がした。勝則はエアウェイトをベルトに挟むと、窓に貼られた防音材を見回してから二人の前に立って言った。
「よっしゃー、回収すんで。ケータイ出してー」
青鬼は、アドバイスを求めるように木之元の顔を見た。両手両足を縛られてから言われても、どうにもできない。木之元は青鬼から目を逸らせると、勝則を見上げながら言った。
「そういうことは、先に言えや」
勝則は、地面に倒された木之元に目線を合わせるように屈むと、その目をじっと見つめた。根競べをするように木之元がその目を見返すと、勝則は目を見たまま笑った。
「待ってるんですが」
真希子がスマートフォンを取り出すと、ストップウォッチをセットして言った。
「オッケー、順番にいこ。青鬼さんからな」
バッグを探って電工ペンチとタオルを取り出すと、真希子は木之元を挟み込むように後ろへ屈んだ。手に冷たい金属が触れて、木之元は振り返った。
「おい、何してんねん」
前に向き直ったとき、勝則がタオルを丸めて木之元の口に突っ込み、膝を胸の上に乗せて動きを封じながら言った。
「ほないこか。三十秒な。スタート」