Locusts
「寝とけ。木之元やから、キノか? ええあだ名やなあ」
「ほんまやわ。分かりやすい」
真希子は心から羨ましそうに言うと、右手を庇いながらうずくまる青鬼を見下ろした。
「なんで、青鬼なん?」
青鬼は、真希子から飛び退いて尻餅をついた。真希子はレディスミスの銃把を青鬼に向けると、質問を繰り返すことなく顔に振り下ろして鼻を折った。勝則の方を向くと、耳から外れて顔にかかった髪を後ろに払いながら言った。
「ゆっくり聞こ。青鬼とか赤鬼って、かっこいいよな。うちらのあだ名とか、めっちゃ間抜けやで。なあ勝則」
エアウェイトのシリンダーを開いて弾が装填されていることを確認していた勝則は、木之元が答えを求めるように見上げていることに気づき、シリンダーを閉じながら言った。
「寸胴屋」
敦史は廊下の真ん中で仰向けになった熊毛の死体を見下ろしながら、顔をしかめた。
「今日は殺すなって、言うてたやろ」
瑠奈は紺色のジャージに返り血がかかっていないことを確認しながら、呟いた。
「無理やし」
敦史は、エントランスから一階の廊下に入る直前に掃除用具を入れる部屋があったことを思い出し、瑠奈の肩をつついた。
「部屋に入れとこう」
瑠奈はスマートフォンを裏返して、カメラのレンズに血が一滴ついていることに気づくと、小さくため息をついた。敦史は、熊毛が着ている黒と紫のジャケットを引っ張って首の周りへ巻き付けると、床に血が伸びないように気をつけながら引きずり始めた。熊毛が持っていたコンビニ袋を拾い上げた瑠奈は、敦史と並んで手伝いながら、言った。
「わたし、怒られてる感じ?」
「いや、そんなことはないけど」
敦史は掃除用具入れのドアノブを捻った。さっき逃げてきたときに鍵がかかっていないことは確認したが、中が満タンならこんな大柄な人間は放り込めない。敦史の心配事を引き受けるように、瑠奈は緊張した表情で、手前に開いていくドアの隙間から中を見渡した。箒とバケツがある以外はがらんとした空間が広がっていて、予想以上の広さに安心した敦史は、熊毛を引きずって中へ入れると、バケツの中で丸まっていたタオルを抜いて出口の近くに敷き詰め、瑠奈がコンビニ袋を胸の上に置くのを待ってから、外に出て扉を閉めた。引きずった跡は、この暗さだとはっきり分からない。エレベーターに近いから、朝になればすぐに発見されるだろう。
問題事がひとつ解決し、敦史がひと息ついたタイミングで、瑠奈は言った。
「マッキーから殺せって来たから」
瑠奈は、本人がいないところでは真希子のことをマッキーと呼ぶ。料理の先生であり、殺しの師匠。勝則は段取りや根回し担当で、こちらはカツと呼ばれている。瑠奈も直接指示されたのなら仕方がないが、それを差し引いても、あまりに手が早すぎる。その思考回路が結論をはじき出すスピードは、ほとんど雷光だ。敦史は、次の言い訳を考えて困り果てているような瑠奈の頭に手を置くと、言った。
「はっきりそうしろって言われたんなら、しゃあないか」
瑠奈が猫のように手へ頭を押し付けるのを受け止めながら、敦史は考えた。ほとんどの仕事は、勝則から教わった。外見は四人家族だが、実際には仕事仲間で血縁関係はない。五年前、勝則と真希子に紹介されたとき、最初のコメントは『似てるやん、オッケー』だった。その一年後に『妹』として瑠奈が入り、四人家族を表現できるようになった。敦史と瑠奈の最初の役割は、寸胴を使って尋問をするときの火の管理で、背が低い内は煮込まれている相手の顔を直接見ることはなかったが、徐々に背が伸びてきて、自分たちが火力を調整するときに相手がどんな表情を浮かべているのか、気づくようになった。外で殺しをやるようになったのは、二年前から。敦史自身は計画や下準備が中心で人を殺した経験はなかったが、瑠奈はその逆で、手を出してから相手が死ぬまでのスピードは年々速くなっている。そして、どうにか終わりにしたいと思う気持ちは、それを上回る。
今回の手引き役は、パチンコの借金で首が回らなくなったC棟八〇一号室の掛井。こちらの立ち位置は親戚で、今日はずっと掛井家としての振る舞いを頭に叩き込んできた。親らしく変装したマッキーとカツは、ポロシャツやブラウスといった『カタギの服』をファッションショーのようにお互いに見せびらかせて、げらげらと笑っていた。
今夜は、まず関係者を一か所に集めて寸胴行きになる人間を決める。それを行う場所は団地の『集会場』。三棟から見下ろす位置にあるから目につくが、元々犯罪に使われているから防音材が窓に貼ってあり、音が漏れづらい。入口は、掛井が鍵を持つ観音開きの正面扉と、使われることがなく万年施錠されている裏口のドア。そして、寸胴行きの可能性が高いのは、昨日までは赤鬼と青鬼だったが、今日は真打ちが帰ってきている。一本松和人、通称ポン松。それ以外で集会場に居合わせた人間は、真希子と瑠奈が『処理』することになっている。だからこそ気になるのは、自分たちの正体にまだ気づいていなかった熊毛を、本当に殺す必要があったのかということだ。敦史が手に残る死体の重さを振り払うように掌を開くと、瑠奈が調子を取り戻して息を吸い込み、抑えすぎてやや掠れた声で言った。
「水こぼしたとき、店員さんのエプロンに福田の指輪入れたやん。なんで?」
「通報してくれるかもしれんやろ。もう終わりにしたい」
敦史が言うと、瑠奈はアイラインをあらかじめ彫り込んだような大きな目をエントランスに向けた。
「戻りたくないんや? 前にさ、逃げるときはわたしも連れてってくれるって言うてたんは、まだ有効?」
「有効や」
敦史は短く答えたとき、足音が近づいてくることに気づいて瑠奈に言った。
「二階に上がろう。誰か来るわ」
エレベーターの真横から伸びる階段を静かに上がって踊り場で立ち止まったとき、掃除用具入れの中から、ほら貝のような音色の着信音が鳴った。瑠奈がナイフの血をジャージの裏地で拭うのを見て、敦史は首を横に振った。
「静かに」
橋本はB棟のエントランスに入ると、川手に言った。
「Aよりちょっとショボいん、分かる?」
川手は団地全体が聞き耳を立てているように、少し首をすくめながら答えた。
「いやあ、そうですか……?」
橋本は笑いながら、エレベーターのボタンを押した。四階にいたカゴが動き出し、三階で一度止まった後、一階に下りてきてドアが開いた。中から掛井が降りてきて、橋本は目を丸く開きながら愛想笑いを返した。
「あれ、掛井さん?」
掛井は息を切らせながら、ようやく話の通じる人間を見つけたように、笑顔を見せた。
「ひなちゃん」
「こっちに来るの、珍しくないです?」
エレベーターのドアが一度閉まり、川手は二人の会話を邪魔しないよう、半歩後ろに引いた。掛井がエントランスから出ることなく額の汗を拭いているのを見て、橋本は笑った。
「大丈夫ですか? めっちゃ汗かいてる」
返事を期待することなく、橋本は熊毛にメッセージを送った。
『家出少女、もうすぐ連れていくでー』