Locusts
木之元はステップワゴンに倒されたまま、体を起こしてヘッドライトを力任せに叩いた。
真希子が振り返り、敦史と瑠奈に言った。
「離れて!」
木之元は目の前で起きていることに混乱したが、敦史と瑠奈が走り去った方に目を向けたとき、片手にコンビニ袋を持った熊毛が柵にもたれかかっていることに気づいて、声を張った。
「アホ毛! 止めろ!」
熊毛は天からの声を聞いたように上を向き、木之元はもう一度叫んだ。
「上見んな、こっちじゃドアホ!」
敦史と瑠奈が駆けていくのを見た熊毛は柵から体を起こして、駆け出した。
「ちょっと、ちょっとー!」
その声を聞いて安心したように宙を見上げた木之元は、険しい表情に戻るとステップワゴンのヘッドライトを再度叩いた。
「眼鏡! 下げろや!」
青鬼はパニックになったようにシフトレバーを操作する黒縁眼鏡ポロシャツの元へ駆け寄り、言った。
「落ち着いて。バックに入れて、下げてください」
ようやくバックライトが点灯し、ステップワゴンの車体が大きく後ろへ後退して木之元の足首を解放した。手助けしようとする青鬼の手を振り払うと、木之元は自力で立ち上がって片足立ちになりながら、掛井に言った。
「お前の親戚、どないなってんねん。鍵貸せ!」
掛井はポケットから取り出した集会場の鍵を投げ、木之元はそれを両手で受け取ると、黒縁眼鏡ポロシャツに言った。
「降り―や、警察来るまでちょっと話そか。掛井さん、アホ毛だけやと怖がるやろし、手伝うたってや」
掛井がB棟の方向へ小走りで向かい、青鬼は、黒縁眼鏡ポロシャツの妻らしき女が覚悟を決めたようにその場に立っていることに気づいて、言った。
「事故は事故なんで。表は寒いし、中で待ちましょか。すんません、みんな掛井さんで……、合ってます?」
「掛井真希子です。夫は勝則。あの本当に、ご迷惑を……」
青鬼は木之元の方を振り返った。足首を折ってくれたのは好都合だ。赤鬼はスカイラインを空いている枠に停めると、木之元の傍まで駆け寄って言った。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫なわけあるか」
木之元は、赤鬼が差し出した手を掴んで移動すると、ステップワゴンにもたれかかった。青鬼は二人の様子を見ながら、真希子に視線を戻した。今までにあまり話したことのない人種だ。真希子は三十代後半にしては若々しく見える上に、何より全てのマナーを常に思い出しながら生きているように、身のこなしが落ち着いている。
「子供に逃げさせてごめんなさい。感じ悪かったですよね」
真希子は振り返ると、ハンドバッグから取り出したスマートフォンの画面を見つめながらメッセージを打った。
熊毛は、敦史と瑠奈が駆け込んだ勢いでまだ揺れているエントランスのドアを開けると、B棟の中へ入った。足音は全く聞こえず、人の居場所を探りながら歩く建物の中は、まるで違う世界に迷い込んだようだった。
「おーい」
熊毛は、何の工夫もない野太い声で言うと怖がらせるだけだと考えて、橋本が野良猫を呼ぶときに使う声色を真似た。
「おーい……」
普段はエレベーターに直行するから気づかないが、団地の中は薄暗い。切れかけた蛍光灯がところどころ点滅していて、奥は非常灯の光だけが生き残って緑色に照らされている。暗い場所が嫌いだったし、今でも同じだ。両親は、苦手なことや嫌いなことを教えてしまうと、お仕置きのときにそれを武器にしてくるような人間だった。一番苦手な暗い場所に閉じ込められる度に泣き叫んで抵抗していたが、よく考えたら暗い場所が嫌いだと最初に教えたのは、自分だった。その仕組みに気づいたのは小学校を卒業する手前ぐらいで、気づいてからは、中学校、高校と、調子は良いが本音を全く言わない人間に性格を切り替えた。結果的に、その体格や力の強さも功を奏して不良グループの中では最も恐れられる存在になったが、高校を卒業するのと同時に就職して狭い世界から解き放たれ、ずっと押し込めてきた本音が頭の中で溢れ返ってきたころに、当時十九歳だった橋本ひなたと出会った。熊毛は二十一歳で、普通のカップルとして交際を始めたが、初めての旅行先で電気を常夜灯にする橋本に『消さんでいいん?』と訊いた。スマートフォンでゲームを続けていた橋本は『翔、真っ暗なん苦手やろ』と言い、彼氏が嫌がることなどとっくにお見通しで、それを避けるのも当然だと言うように、目線を上げることもなかった。そこで、今までに外へ出さずに押し込んでいた感情の箱が潰れ、人前では絶対にしないと誓っていたにもかかわらず、気づいたら涙を流していた。そのエピソードは橋本のお気に入りで、今でも喧嘩をすると『すぐ泣くマンのくせに。わたしは全消し派やからな』と言うが、それは全く不愉快に感じない。
熊毛は、家出少女の分を含めて三つプリンが入ったコンビニ袋を片手に、暗い廊下を歩きながら、考えた。ひなたと一緒なら、子供も怖がらないはずだ。いや、冷静に考えれば考えるほど、今この状況を一番怖がっているのは、自分だ。
「リーダー」
雨野が手をひらひらと振り、客がひしめく時間帯を乗り越えた宮田の目を覚ますように、笑いかけた。宮田はようやくひと息ついて、リアルタイムで発生しつつある肩こりを癒すように左肩へ手をやった。雨野は表情だけで労うと、自分のエプロンの形を整えて背筋を伸ばした。深夜帯のシフトに被る直前は、疲れ切った店員とシフトに入ったばかりの店員が一時的に混ざり合う。雨野は店の雰囲気を損なわないように、暇さえあれば常にエプロンの形を整えていて、宮田はなかなか見習えないままシフトを終えることがほとんどだった。
「お疲れ様。今日、中々の客数やったね」
宮田が言うと、雨野は綺麗に伸びたエプロン越しに、自分のお腹を撫でた。
「腹ペコの日」
全体的に空気の流れが緩やかになった店内を見渡しながら、雨野は続けた。
「一日が終わりますねー」
「ほんまやねー」
宮田が口調を真似て応じると、雨野は顔を覗き込んで言った。
「今日、四名でお待ちの掛井様来てから、ずっとうわの空ですね」
「本剛団地にいい思い出がないねん。昔、従兄弟が住んどったから、遊びにはよく行ったんやけど。雨野、地元にそういうのなかった?」
「うーん、一戸建てがバーッて並んでるとこで育ったんで。笑い声とかも全部オホホでしたねー」
雨野はそう言うと、ふと気づいたように一歩引いて、宮田の全身を眺めた。
「なんか、エプロンずれてません?」
宮田は左肩に無意識に手をやり、首を傾げた。姿見を見ると、確かにエプロンが少し傾いている。
「それで微妙に肩凝るんか、なんやこれ」
「いらっしゃいませー」
雨野が団体客の方に駆け寄り、宮田はひとりで鏡を眺めながら、エプロンをぽんぽんと叩いて探った。
「掛井勝則、掛井真希子、子供は敦史と瑠奈? 了解」
青鬼から訊いた情報をまとめながら、木之元はテーブルにもたれかかった。集会場の中はがらんとしていて、百人を集めることを想定して作られているからパイプ椅子だけが大量に余っている。
「とりあえず、ちょっと落ち着きましょか。痛いわマジで。ギア間違えたん? あるあるやけど」