Locusts
橋本はうなずくと、川手と連絡先を交換した。まだ何もないメッセージ送受信の画面に『よろしく』と書かれたイラストのスタンプを送り、川手がそれに『よろしくお願いします』と返したとき、C棟の方向から甲高いクラクションの音が鳴り響いた。
スカイラインのホーンボタンから手を離した赤鬼は、次の指示を仰ぐように振り返った。木之元は明らかに苛ついた様子で、言った。
「もう一回鳴らせや。黒縁眼鏡ポロシャツ戻ってきとるやん」
ヴェルファイアの前に、またあのステップワゴンが停まっている。ハザードが焚かれているが、今度は運転席に誰も乗っていない。
「車、出されへんやろが」
赤鬼はハンドルにもたれかかるように前のめりになりながら、車内に目を凝らせた。
「後部座席でなんか動いてるような……。ここの車ちゃいますよね」
青鬼が助手席のハンドルに手をかけると、木之元は先を促すように手で追い払う仕草をした。青鬼はスカイラインから降りて、ナトリウム灯でオレンジ色に照らされる白いステップワゴンを眺めた。リアウィンドウのスモークすら純正で、ほとんどレンタカーに見える。綺麗に洗車されていて、ぶつけた跡もない。丁寧な人間が乗っているのだろう。
木之元は、運転席の背もたれを軽く叩いて、赤鬼に言った。
「じっとしとけよ」
返事を待たずに木之元がスカイラインから下りたとき、ステップワゴンが微かに揺れて、後部座席から這い出してきた『黒縁眼鏡ポロシャツ』が頭を下げながら運転席に座った。木之元はその様子をしばらく見ていたが、ふと、見張りが撤収して誰もいなくなった広場を見渡した。好意的に解釈するなら、黒縁眼鏡ポロシャツの片手にはスマートフォンが握られているから、一旦戻ってきて駐車場を本気で調べていたのかもしれない。しかし、この周りにはコインパーキングがほとんどない。裏手の道が駐車場代わりだ。
木之元が運転席の窓をコツコツと叩くと、黒物眼鏡ポロシャツは窓を下ろしながら頭を何度も下げた。
「すみません、車出しますよね」
「ここ、好きやね」
木之元の口調の強さに、黒物眼鏡ポロシャツは少し顔を引いた。青鬼は木之元が会話を続けられるよう、ジャージのポケットに手を突っ込んで、ステップワゴンに背を向けて立った。あまり良くない流れだ。キノの頭の中は、誰にも分からない。服は、常にグレーのウィンドブレーカーとブルージーンズ。ヴェルファイアは古い型で、早川に薦められるままに買ったものだ。酒は飲むが、これといった趣味もないし、そもそも贅沢をしない。キノが恐れられているのは、外の世界に愛着がないように見えるからだ。だから、相手が虫も殺せなさそうな『休日のパパ』であっても、安心はできない。青鬼は、スカイラインの運転席に目を向けた。目線だけで『何か起きたら、止めるのを手伝ってくれよ』と伝えると、赤鬼はうなずいた。
木之元は愛想笑いを浮かべると、要塞のようなC棟を指差した。
「その裏に車ずらーって並んでるんですけどね、駐禁とか来ませんよ」
青鬼は会話に耳を傾けながら、つい一時間ほど前に通ったときのことを思い出した。窓が割れていたり、タイヤがパンクしている車はなかったが、あんなところに車を停めておこうと考える人間はいない。こういう場所に縁がなければ、なおさら。
「ちょっと調べてたんですけど、中々なくて」
黒縁眼鏡ポロシャツの声。青鬼は声に出すことなく笑った。キノは外見が地味過ぎて、外の人間にはその怖さが通用しない。
「駐車場? あー、ちょっと遠いかな」
木之元はそう言うと、ポケットからヴェルファイアの鍵を取り出した。それが合図になったように、黒縁眼鏡ポロシャツはハザードを消してサイドブレーキを解除した。木之元が見送るための愛想笑いに切り替えたとき、ハンドルに手をかけた黒縁眼鏡ポロシャツは言った。
「裏の道って、停めてて窓とか割られたりしませんかね」
木之元はその顔から笑顔を消した。
「なんて?」
掛井はB棟とC棟の間まで歩くと、集会場を指差した。電気は点いておらず、コンクリートがあちこちひび割れている。その様子を見て、瑠奈が言った。
「すご、廃墟みたい」
「夜に見たら、怖く見えるなあ」
真希子が言い、掛井は添乗員の役目を続ける合図のように、小さく咳ばらいをした。
「これが集会場ね。中はテーブルとかがある以外、空っぽ。あんま使われてないから、まあ廃墟みたいなもんかもしれんね」
敦史は建物を振り返った。それぞれの棟にエントランスがひとつあって、道路に面しているA棟だけ塗り直されたような跡がある。外を歩いている人間はひとりもいないが、A 棟のロビーでは若い女の人が二人、話し込んでいるのが見えた。
「幽霊団地やな……」
敦史が呟いたとき、真希子が集会場で見えなくなっている駐車場の方へ目を向けて、掛井の肩を忙しなくぽんぽんと叩きながら言った。
「お父さんかも」
敦史と瑠奈は、同時に耳を傾けた。瑠奈は、断続的に聞こえる会話の『気弱な方』だと気づいて、敦史のジャージの袖を引いた。
「なんか、ゴタってない?」
「駐車場、見つからんかってんな」
敦史が言い、真希子は掛井と目線を合わせながら集会場を大きく回り込んだ。ステップワゴンの進路を塞ぐようにスカイラインが停まっていて、丸い四つ目のテールランプが赤く光っている。ステップワゴンの運転席の前に木之元が立っていて、後ろには誰も近づかないよう見張っている青鬼。お決まりの絵面を見た掛井は、首を横に振った。
「あー、キノと揉めたら……」
「キノって、あの地味な感じの人?」
瑠奈が言い、答えを求めるように敦史の顔を見た。敦史は苦笑いを浮かべながら、答えた。
「知らんし」
掛井は少し早足で歩くと、同じペースで歩き始めた真希子に言った。
「今日はおらんはずやのに」
真希子は掛井に歩調を合わせながら、後ろを振り返った。敦史と瑠奈の視線が同時に突き刺さり、真希子は言った。
「ちょっと、その辺で待っといて。喋ってくるわ」
青鬼は、迷い込んだように上品な出で立ちの女が早足で寄ってくるのを見て、顔をしかめた。家族連れは面倒すぎる。真希子が目の前で立ち止まり、青鬼は両手で制止しながら後ろを振り返った。
「あの、すんません」
青鬼が言うと、木之元は運転席から顔を離した。黒縁眼鏡ポロシャツの家族が帰ってきた。空気が読めない親戚をぞろぞろ連れてきた掛井は、一度シメた方がいいかもしれない。
「掛井さん、マジで頼んますわ」
木之元が言うと、掛井が真希子よりも前に出て、頭を下げた。
「木之元くん、ごめんなあ」
スカイラインの方へ歩き出しながら、言いたいことを半分以上飲み込んだ木之元は、最後にもう一度振り返った。額に汗を浮かべている黒縁眼鏡ポロシャツはステップワゴンのシフトレバーを忙しなく操作し、Rを飛び越してDに入った状態でアクセルを踏み込んだ。その場にいた全員の予測に反して、ステップワゴンはタイヤを鳴らしながら前へ発進し、木之元を跳ね飛ばした。真希子が両手で口元を覆い、車体は木之元の右足首をバンパーの下に巻き込んだ状態で停止した。
「なんでやねん!」