Locusts
二
見張りがいなくなった。カーテンの隙間から階下を見下ろす橋本は、ポケットの中でスマートフォンが震えたことに気づいた。大体予測はついたが熊毛からで、『引き上げまする』というつまらなさそうな短文。
『お疲れさまでござりまする。ちょっと来客あるんやけど、大丈夫?』
『いいよ、誰?』
『家出少女』
返事を待たずに、橋本は川手の方を向いた。
「川手さん、今日は何があっても帰らんよね?」
川手が叱られるのを待つように小さくうなずくと、橋本は愛想笑いを浮かべた。
「それやったら、うちの部屋に来る? 彼氏が邪魔やけど」
なぜこんなことを言うのか、自分でも分からない。ただ、環境を変えれば川手が家に帰ろうと思うだけの何かを作り出せる気がする。いつもなら光のスピードで返ってくる翔の返事が止まったのは、考えているからだ。スマートフォンが光るのを待っている橋本と目を合わせると、川手はポン松の方をちらりと見てから、申し訳なさそうにうなずいた。
「そんなこと、お願いしていいんですか」
うなずいたとき、橋本の手元でスマートフォンが光った。
『ややこしそうやな。時間潰しとこか?』
熊毛のシンプルな返答を見て橋本が思わず笑顔になったとき、ポン松が眉をひょいと上げた。
「橋本、この恩はいつか必ず返す」
「先に返せや、今」
橋本はスマートフォンの画面を見つめたまま言うと、熊毛に返信を送った。
『フツーに帰ってきてよ。お腹空いたっしょ』
川手は弁当のガラを袋に片付けると、ポン松に深々を頭を下げた。
「あの、お邪魔しました」
「達者でな―」
ポン松はスマートフォンを手に持つと、映画を止めていた箇所から再生し始めた。橋本は自分の買い物袋を手に持つと、川手を連れて九〇一号室から出た。見張りがいなくなった団地は死んだように静かで、後ろでドアが閉まるのと同時に、訪問販売を追い返したような力強さで鍵がかかった。何をさせても荒っぽくて雑なポン松らしいといえば、それまで。
「ほんま、何しに帰ってきたんやろな」
独り言のように言うと、橋本は振り返った。金を持ち逃げして、その金を女に持ち逃げされて。川手がエレベーターのボタンを押したとき、隣に立った橋本は言った。
「うちは、わたしが七歳のときに父親がおらんようになったんやけど。母親は再婚せんかった」
橋本健一郎は、実際には建材の下敷きになって死んだ。しかしそれを言うと、川手は自分の経験と完全に切り離してしまう。川手が耳を傾けていることを確認してから、橋本は続けた。
「川手さんとこはスピード再婚やから、うちの逆パターンやね」
川手はうなずくと、ほとんど背が変わらない橋本の横顔を見た。目が合ったとき、まだ頭に用意していなかったはずの言葉が飛び出した。
「なんか、どう振舞って欲しいか、全然分からないんです。普通にしてて欲しそうなんですけど、それだけが無理で」
「そんなん、普通は無理やで。勝手すぎん?」
橋本が言うと、川手は今までに相談した人間全員と同じ反応が返ってきたように、何度もうなずいた。
「そんな簡単に、普通になってほしくないんです」
「ならんままで、別にいいんよ。その新しい男も、川手さんも」
橋本がそう言ったとき、普段はいつまで経っても辿り着かないエレベーターが、時間切れを示すように目の前で停まった。同時に乗り込んで橋本が一階のボタンを押し、エレベーターが動き始めたとき、川手は言った。
「そのままでいいんですか?」
「いいよ。相手の期待してることなんか、分からんやん」
橋本が言うと、プーリーの軋む音が鳴る中、川手はバッグの紐を強く握りしめた。
「でも……、例えばご飯食べるときとか。なんか喋らなダメですよね?」
「相手が黙っとったら、なんか喋れやって言うたりや」
橋本が言うと、川手はバッグの紐を指に引っかけてくるくると回しながら、俯いて笑った。
「なんか、そういうアドバイスは聞いたことなくて……、想像したらちょっと面白いです」
「想像できる?」
橋本が訊くと、川手は想像と現実の間を行き来するように、口角を上げてうなずいた。エレベーターのガラス窓に写るその表情を注意深く観察しながら、橋本は同じように頭の中で川手の『新しい父』を想像した。自分が文句を言う場面を想像して笑えるということは、そこまで悪い人間ではないのだろう。おそらく家出をしたのは、自分の中で処理しきれなくなったから。橋本は自信を取り戻したように、鼻から息を吐いた。もう少し話し込んだら、帰る気分になるだろう。
「めっちゃ基本的なこと聞いていい? なんて言って出てきたん?」
「友達の家に泊まるって、言ってきました。そんな友達いてないんですけど」
川手は自分自身がつまらなくて仕方がないように、俯きながら言った。エレベーターが間を救うように一階で止まり、ロビーに足を踏み出して橋本は言った。
「うちはB棟の六〇五。ここな、アルファベットの順番にボロくなるんよ。どの棟も一階は完全に廃墟やし、五十歩百歩やけど」
「一階には、誰も住んでないんですか?」
川手が横顔を見ながら言うと、視線に気づいた橋本は川手の方を向きながら言った。
「うん、空き巣とか強盗に入られまくるから。どっちが住人やねんって錯覚するぐらい」
川手は苦笑いを浮かべると、建物に興味が湧いたように壁や天井を見上げた。折れ曲がっていびつに光を跳ね返す郵便受けに目線を落ち着けて、川手は言った。
「私は、いつか普通になりたいんです。それも思わんほうがいいですか?」
橋本は首を横に振った。
「いい目標やと思う。でも、相手の思う普通に合わせたらしんどいから、それはやめとこ」
川手がほとんど首を傾げるような角度でうなずき、橋本はしばらく宙を見上げた後、言った。
「後で見てほしいんやけど、うちにはこぐまのプーっていう、もう色々とギリギリな名前のぬいぐるみがおってさ。例の父親のプレゼントなんやけどね」
川手が笑い出し、橋本はそれに合わせて笑いながら、続けた。
「わたしは、嫌なことがあったらそのプーに愚痴ってた。どこで作られたんか分からんし、顔とか明らかに胡散臭いんやけど。実家から持ってきたんは、それだけやったわ」
「宝物なんですね」
橋本は一時停止ボタンを押されたように、笑顔のまま固まった。ぬいぐるみ、土産、形見、実家から持ってきたもの。色々な言葉で表現してきたけど、最もふさわしい言葉は、何故か川手の頭の中から飛び出してきた。
「そう、宝物。なんで娘へのプレゼントがパチもんやねんって、ずっと思ってたけど。どっかで自然にプーが普通になった」
橋本はスマートフォンを尻ポケットから取り出すと、歪んだ郵便受けの前に立つ川手に言った。
「なんも知らんまま色々言うてもたけどさ、全然わたしの言った通りにならんかったら、クレームは受け付けるから」
川手はバッグからスマートフォンを取り出し、泣き顔が少しだけ混ざった笑顔を向けながら言った。
「相談してもいいんですか?」