Locusts
ポン松が安心したように小さく息をつき、橋本は川手の反応を待ったが、その表情は昔の自分がそのまま乗り移ったように、そっくりだった。わたしも、居心地の悪い家より即席の仲間を選んでいた。橋本が言葉を継ごうとしたとき、川手はようやく目を伏せたままうなずいた。
「はい」
「その返事の短さは、朝まで時間潰す気ちゃう?」
橋本が割箸の封を切りながら言うと、川手は結論をはるか遠くへ先送りするように、渋々うなずいた。
「まあ……」
ポン松が首を横に振り、橋本の方を向いて補足するように言った。
「この子の家な、再婚相手のおっさんが我が物顔で歩き回っとるらしい」
「ほんで、これが歩き回っとる家の方がいいわけ?」
橋本が箸で突き刺すようにポン松を指しながら言うと、川手はまた表情を緩め、息継ぎをするスペースをようやく見つけたように深呼吸をしてから、橋本の目を見た。
「あまりにも急すぎて……、なんか当たり前みたいな。彼氏できたっていうのは知ってたんですけど。気づいたらもう家におったんです」
「そういう話を娘にする時点で……、もうね。母親をやらんかいな、母親を。なあ?」
ポン松が発した言葉は橋本と川手の両方が拾うことなく、宙に浮いたままになった。弁当の蓋に手を掛けたまま、橋本は考えた。ここを川手の『即席の仲間』にしてはいけない。そう分かっていても、自分には厳しいことを言うだけの説得力がないし、川手は自分が放り出された場所がどこであろうと、そこで一晩過ごすのだろう。それが家でさえなければ、どこだっていいのだ。諦めたように弁当の蓋を開け、唐揚げの油が完全に分離してプールのようになっている様子を見た橋本は、顔をしかめた。
「クオリティやば」
「俺に食わす気で選んだんやろ」
ポン松の言葉に川手がくすりと笑い、橋本はそれに合わせるように笑うと、唐揚げに箸を突き刺した。わたしとポン松がボケとツッコミ。『はる』は、見世物小屋の見物に来たお客さん。
今はそれで構わないけど、こたつに全体重をかけてくつろいでいた翔が、もうすでに懐かしい。
赤鬼がスカイラインをA棟の入口から滑り込ませたとき、青鬼が運転席側に早足で近づいてきた人影に気づいて、視線を向けた。それが木之元だということに気づいた赤鬼は急ブレーキを踏んで停車し、窓を下ろしながら言った。
「お疲れさまです」
「おう。二人とも揃ってんの、珍しいな。今日はドライブか?」
「ちょっとぐるっと回ってました」
赤鬼が言い、木之元は後部座席のドアを開けると中に乗り込んだ。
「もう一周してや」
青鬼が振り返って、頭を下げた。
「お疲れさまです」
「兄弟やなー」
木之元が言い、それが許可になったように、赤鬼がスカイラインを発進させた。でこぼこに舗装された道の段差を拾いながら走る中、あちこちに立つ団地の面々を指差して、木之元は青鬼に言った。
「あいつら、何を見てんの?」
「今日、早川さんと木之元さんがいてないんで、揉め事が起きんように見張ってます」
「おるけど」
木之元が自分を指差しながら言い、バックミラー越しに目が合った赤鬼は愛想笑いを返した。
「戻ってきてくれて、よかったです」
「ほな、解散でええか?」
木之元は運転席側の真後ろから、呟くように言った。青鬼は赤鬼の方を向こうとしたが、それが木之元の視界に入ることに気づいて、顔を前に向けたまま答えた。
「いえ、それはちょっと……」
赤鬼が身をよじり、咳ばらいをした。木之元は青鬼の後頭部に目を向けたまま、言った。
「あかんのかい。そら失礼しました」
背中に明らかな違和感を覚えた赤鬼が反対側に腰を捩ったとき、木之元は笑った。
「歩けんようになるぞー、車停めろ」
振り返った青鬼は、木之元の手にナイフが握られていることに気づいた。運転席を突き抜けて、刃先が赤鬼の背中に当たっている。スカイラインがゆっくりと動きを止め、木之元は青鬼の方を向くと、言った。
「解散せんの?」
青鬼は木之元から目を逸らせると、からからに乾いた口を開いた。
「します」
「ええんか? なんかあって、木之元の指示で解散しましたーって後で言われんの、嫌なんですけど」
赤鬼の体が動き、木之元は背骨を避けてナイフの刃をめり込ませた。熱湯に触れたように赤鬼が顔を歪め、木之元は柄を握る手に力を込めて、刃を左右に動かした。
「お前もはっきり言えや、痛いんか?」
「痛いです」
「なんで?」
木之元が顔を傾けて赤鬼の横顔に視線を向けると、赤鬼は短い首を捻じ曲げて振り返りながら、自分の背中に目を向けた。
「ナイフが……、刺さってるんで」
「兄貴はちゃんと説明しよんぞ。青鬼、お前の方が頭ええはずやろ? 生まれるときに兄貴の首締めとったんちゃうんかい」
木之元はそう言うと、青鬼の方を向いた。赤鬼は脂汗を流しながら、目線だけを青鬼に向けた。青鬼は、木之元の目を見たまま赤鬼が目で訴えている内容を理解し、小さく咳ばらいをしてから、言った。
「ちょっと、ポン松さんと揉めてるんです」
「お前らもアホ毛も、ちょっとちょっと言いよって。流行ってんのか?」
木之元は赤鬼の背中をなぞっていたナイフを止めて、笑った。赤鬼は背中の痛みが引くのと同時に空気が抜けたような笑い声を漏らした。
「まだ笑うな」
木之元は青鬼の方を向いて、綺麗に整頓された発言を待った。青鬼は木之元が聞きたがっている情報を頭の中で並べ替えた。これ以上間違えると、赤鬼の背中がジグソーパズルになる。
「ポン松さんと直接話したいんですが、女が一緒にいます。多分未成年やと思うんですが、ここの人間じゃないんで部屋に行くのもちょっと」
木之元はナイフを握っていない方の拳を固めた。いかにもポン松が考えそうなことだ。団地と接点のない人間と一緒にいれば、すぐに手出しはされない。
「で、動いたらすぐ教えろってことやな。なるほど、分かった」
木之元はナイフを座席から抜いて、シースケースに収めた。赤鬼が魂を道連れにしたように大きな息をつき、青鬼はスマートフォンを取り出した。木之元は自分の段取りを先読みしたような青鬼の肩をぽんと叩くと、言った。
「ほな、解散させよか。お前らがおるから、ビビって籠っとんのやろ? 一旦、すっからかんにしよや」
青鬼は木之元に文面を見せてから、メッセージを一斉に送った。何人かがのろのろと動き出したのを見て、木之元は言った。
「お前らは、ポン松となんで揉めてんの? 野暮なこと聞くなって感じ?」
青鬼は、心臓を直接掴まれたように姿勢を正した。『ポン松と揉める』ということ自体がご法度なのだから、内容に関わらず制裁は避けられない。しかし、その酷さや時間の長さは、話す内容によってある程度変わるだろう。
「ポン松さんに関係することで……、寸胴屋を寄越すって詰められてます」
木之元は目を丸く開くと、身を乗り出して青鬼と赤鬼の顔を交互に見てから、元に戻った。
「寸胴屋って、拷問して人バラバラにする連中やっけ。へー、そうかそうか。てか、おれも車どけるから、ちょっと回ってくれへん?」