奴隷世界の神々
「日本のような国家になってはいけない」
という戒めもあって。
「弱肉強食の神」
がいるのではないか?
そんなことを考えていると、団員の一人は、
「それじゃあ、この奴隷の国の神を作ったという人たちには、このような世界になるということを予見できていたということなのか?」
という驚愕にも似た思いだった。
神様というのは、人間が創造したものである。ただ、神様の存在意義としては、
「創造主としての神」
というものが、彼らの大前提にはある。
だから、その創造する対象は他ならぬ人間だということになるのではないだろうか。
彼ら奴隷民族を作ったのが、神様、その神様をあの国では信仰しながら、祖先の創造物だと思っている。
そこに、矛盾が存在するのだ。
それこそ、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
と理論である。
だから、彼らの創造する神には、必ず、創造に値するような事実、いや、史実というものが必要になってくる。
なぜ、その発想が日本になるのかは分からない。別に奴隷の土地と日本が、いつの頃からか、親密な関係になったというような話を聞いたことがない。
国家間のことにおいては、一番詳しいはずの国連であるはずなのに、少しも聞こえてこないということは、その話に信憑性は皆無だということだ。
それなのに、彼の中で考えるモデルとなる国は、どうしても日本になるのだった。
「じゃあ、他の人たちはどうなのだろうか?」
と考えてしまう。
団員の中での感覚だけなのだが、
「皆も日本を意識しているのではないだろうか?」
という気がした。
話に出てきたことはないので、何か胸騒ぎのようなものという、れっきとした信憑性ではないのだが、自分が日本と気が付けば比較して考えていたのと、どこか似ているような気がする。
「そういえば、日本という国は、陰ではどうだったのか分からないが、大っぴらに、奴隷というものを持っていた国ではないような気がするな」
と感じた。
江戸時代には、
「士農工商」
などの身分制度があった時代はあったが、奴隷として、人間をこき使うというようなことをしたりはしなかった。
農民に対しては、奴隷以上な態度をとってきたことはあったのだが……。
だからこそ、奴隷というものを名言し、さらに、当の本人たちがそのことを、悪びれる様子もないというのはおかしなことだ。
彼らは、奴隷ということで、自分たちの人生を諦めているわけではない。奴隷ということを十分理解したうえで、
「これが俺たちの生き方なんだ」
と考えている。
そう、彼らにとって、奴隷というのは、
「生き方」
なのだ。
決して、運命だとは思っていない。運命だと思ってしまうと、それは、
「自分たちが受け止めるという受動的なことになってしまうからだ」
と考えるからだ。
「生き方ということになると、それは、自分たちが選んだものであり、もっと積極的な考えになる。まさか、奴隷というものを、能動的な、自分たちの生き方だと考える民族がいるなど、まったく想像できるものではない」
ということであった
「そういう考え方が、日本人という民族に似たところがあるのだろうか? 確かに日本という国は島国であり、他の国にはない、万世一系の天皇制というものが残っている国ではないか?」
と考えたのだ。
どうしても、日本という国を意識してしまうと、それが神を慕っている彼ら奴隷という民族性と、かつての日本という国とが、どこか似ているような気がする。
一番の違いとして考えるのは、
「この地域の人間が奴隷という意識を持っているからなのか、神様について、信仰心同様に、皆がしっかりと勉強している。しかし、日本はどうだろうか? すっかり神というものの信仰はおろか、まったく勉強もせず、宗教団体がからむと、毛嫌いすら覚えるくらいではないか」
ということであった。
特に、
「日本という国は、神の国であり、元寇来週の時には、神風が吹いて、わが日本を助けてくれた」
という伝説。
さらには、国家体制として、万世一系の天皇家が存在し、歴史の途中で武家政治に変わったとしても、天皇家と、その権威は存在していた。それは紛れもない事実なのだ。
ただ、奴隷民族が、
「自分たちの国以外のことを意識しているのか?」
と聞かれると、ハッキリ言って、
「そんなことはありえないだろう」
としか思えない。
何しろ国家大切としては、すべてを国連に委ねるという。委任統治ではないか。
委任しているのは、支配階級の国。自分たちでも統治をできないこともないのだろうが、彼らが自分たちを奴隷として意識していることで、どのように彼らにかかわっていいのか分からないのだ。
だから、直接統治に対しても消極的で、実際に国連から、奴隷地域を、
「委任統治したいのだが」
と言ってきた時は、
「渡りに船」
だったに違いない。
彼らの崇める神には、そのほかに、
「生殺与奪の神」
「復讐の神」
「嫉妬の神」
などという、おおよそ、神と呼ぶには疑問に感じられる神が多く存在するが、ここまで表記してきた神も、それに負けず劣らずだったではないか。
それを思うと、この国の神は、彼らを奴隷として意識させるにふさわしいものなのかも知れない。
まわりの人間には決して理解することのできない信仰心を持っていて、しかも、奴隷に甘んじていることを、誇りにさえ感じているというその民事区政だからこそ、存在する神なのだろう。
そして、その共通点として、
「戒めの意味を込めて」
という感覚である。
復讐にしろ、生殺与奪にしろ、基本的に人間は持ってはいけないものだ。
「だからこそ、神がつかさどる」
ということであれば分かるのだが、
時々、復讐というのも、
「自分がされて、報復をしたいと思う相手が、勝手に滅んでしまうということがあったりする」
というのは、この地域だけのことではなく、日本という国家にもあった。
基本的に、復讐などということは許されていない日本の国家では、何かをされても、
「され損」
というころになる。
それを思うと、
「生殺与奪」
にしてもそうだ。
人の命を奪うなど、どんな理由があっても、適用されるのは、殺人罪。
だが、裁判によって、いろいろな状況や、事実となる証拠が見つかれば、情状酌量から減刑になることは当然ありうる。だが、無罪放免になることはない。あるとすれば、
「正当防衛」
「緊急避難」
「自己防衛」
などという、いわゆる。
「違法性の阻却事由」
というものでなければ、有罪になってしまうのだ。
大団円
奴隷たちが神を崇めるのは、
「これから、近い将来において、自分たちが信仰している神が降臨し、自分たちを新たな道に導いてくださる」
ということであった。
それがいつなのか、そして、導いてくれるところが果たしてどういうところなのか? ということは分からない。
「皆は、そんなことを気にすることなく、神様にお祈りをするのだ。さすれば、きっと救われる。神様は信仰心の厚い我々を見捨てたりなんかしない」
というのが、神々に対している教えだったのだ。