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人生×リキュール ベネディクチン

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 こっちに住んでるくせに、兄は当たり前のように自分のことを除外している。お母さんのお見舞いだって一回しかいかなかったくせに。入院してから急に気弱くなった母は頻繁に国際電話をかけてきていた。内容はいつも文句だ。娘にしか吐き出せなかったのだろうが、見舞いに来てくれない兄の愚痴まで聞かされた日には自業自得でしょと突き放したいことがよくあった。兄貴面して口ばっかり出してきて。母は最後の最後まで兄が来るのを待っていた。それなのに、兄が現れたのは母の葬儀の打ち合わせの時だ。兄に対して猛烈な殺意が沸いてくるのを感じた。
 その上、お父さんのことまで・・いったい何様のつもり?
「お父さんのことは、私がやるから放っといて」
「はあ? そんなこと言って、どーせ俺にも回ってくんだろ。いいじゃんか。今のうちにあの家も売っぱらってさ。不動産屋に知り合いもいるから、上手いこと財産分与しちまおうぜ」
 結局、兄はそれが目的なのだ。腹が立った。今回一番葬儀代を出してないくせに、父が築いた僅かな資産まで搔っ攫おうとする。縁を切りたいと切に願った。こんな非道なヤツ、兄でもなんでもないわ。尚も畳掛けてくる兄の声を無視して窓を全開にする。冷たい夜風が車内に渦巻いていた憤りや憂鬱や欲望が混ざった汚い空気を一掃していく。閉めろよバカさみいだろがと罵声を飛ばす兄もどこかに吹き飛ばされればいいのにな。
 私は甲に乗せられた父の手を握り返した。目を瞑った父は、口をハニワのように丸くさせて突然の強風の襲撃に耐えており、それどころではないようだ。
 冬の夜風は温度と湿度を容赦なく奪っていくけど、雑念のない透き通った空を置いていくのだ。

 火葬され骨揚げされた母の遺骨を胸に、父と二人で実家に帰った。
 遅い夕飯を囲んだ後、父は自分の寝支度をきっちり済ませて自力で介護ベッドに横になる。ほとんど私の助けはいらないのだ。戸締まりしたかなぁーと心配しながらも疲れたのかすぐに眠ってしまった父。
 家の中は父が車イスで動き回れるような仕様に変わっていて、掃除が行き届いていないだけで荒れているわけでもない。庭だけがジャングルのようになっているので、明日辺りに草刈りをしようと思ってリビングのソファーで引っ張り出してきた毛布と布団をかけて眠りについた。
 翌朝、夫と子どもたちから国際電話がかかってきた。
「おじいちゃん、行けなくてごめんね」と謝る子どもたちに、父はいいんだよぉーいいんだよぉーと対応している。頻繁に連絡を取っていた子どもたちは、祖父の変わりようにすっかり慣れていた。
「それで、これから君はどうしたいと思っているの?」
 相談しなくても事情を察するのが得意な頭のいい夫は、さすがの疑問をぶつけてきた。
「君のことだ。特養とかの選択肢は、はなからないんだろ?」バレている。夫は何もかもお見通しだ。
「僕の仕事もある程度自由が効くようになったから、そっちに移ることは可能だよ。昨夜、子どもたちとも話したんだが、子どもたちもおじいちゃんと一緒に過ごせる時間を大切にしたいみたいなんだ。このまま離れたままだと、きっとおじいちゃんになにかあった時に後悔するからって。お父さんも九十になるし、確かに一理あるよ」
「でも、子どもたちは学校が・・やっと慣れたのに」
「彼らにとって、おじいちゃんとのことは、それより大切なことなんじゃないかな」涙が溢れた。この人と一緒になって、ほんとうによかった。私がぐずぐず決断できずにいることをひょいっと飛び越えた先の解決策を提示してくれる。『ありがたいなぁーうれしいぃーしあわせだぁー!』父がずっと連呼していた感謝の言葉が響いてくる。父は誰に対してもストレートに感謝する。何度も何度もお礼を口にして、言われた人は悪い気がしない。父は人からしてもらったことをありがたいと思い、嬉しく感じそれが同時にしあわせなのだ。若い頃のことは知らないが、父の半生は幸せなものではなかったはずだ。けれど、それは人生という区分で見た場合の話。幸せとは日常の些細なことにも宿っている。自然の中に、生活の中に、偶然にも、誰かの一言にも、自分の存在にすら存在するのだ。
 それを当たり前だとして享受していると、満足できなくなってしまう。もっと大きな幸せを。もっと価値のある幸せを求めて、常にある幸せを見失ってしまう。そして、思い描いた幸せを得られないと嘆き悲しみ、苦しみ、終いには自殺したりしてしまう。父はずっと小さな幸せを感じていることを表現したかったのかもしれない。だって、こんなにも私達はたくさんの誰かに受け入れられて思われて助けられているから。
 ほんとにそうだね、お父さん・・庭を眺める父の背中がゆらりと滲んで沈んだ。私の電話越しの嗚咽を夫は黙って聞いていた。

 それから、数ヶ月後。
 実家の近くに引っ越して来た私達家族は、父のおかしな行動に気付くようになる。
 私と子どもたちが代わりばんこに父と寝食を共にするようになったのだが、父の徘徊癖は一向に納まる気配はなかった。毎回どこに行っているのかと、父のあとを尾行してみたが、毎回ルートが違う上に、時には電車に乗って遠くに行くこともあるという始末。目的がなんなのかも掴めないまま数ヶ月が過ぎた頃、子どもの一人が発見した。父は出会った人にお酒をあげているという。
「恩返ししているんじゃないかなぁ」お父さんなりの、とその話を聞いた夫は笑った。
「人と人の出会いは、不思議な化学反応を起こすからね」
 そうは言っても、その慈善活動が深夜に及んでくるとさすがの私も心配になる。
「ねえお父さん、いつもそうやってなにしてるの? どこに行くの?」
 たまり兼ねて問い詰めてしまったことがある。父は怒られた子どものような悲しそうな顔をしてわなわなと唇を震わせ始めた。それを見ているうちに、父の行動を咎めること自体が意味のないことだなと諦めた。
「わかった。お父さんの好きにしなよ」
 父は半泣きになりながら何度も頷くと、車イスの後ろから一本の瓶を取り出した。ははぁこれが例のねと私はぎこちなく瓶を受け取る。赤いシーリングワックスのあるなんだか高そうな酒だ。
「お父さん、これなんなの?」
「ベネディクチン!人生に感謝する一本を!」
 そう叫んだ父は意気揚揚と出かけていった。やれやれ。なんだかよくわからないけど、夫が帰ってきたら一緒に飲もうかしら。父が帰ってきたタイミングで三人で飲むのでもいいし。ぼんやりと瓶を眺めているうちに、父が若い頃バーテンダーをしていたと聞いた覚えがあることを思い出した。だから、こんなことしてんのかしら?
 キレイに整えた庭には菖蒲が咲き誇っている。母が好きだった花なのだと、死後初めて知らされた。
「コフウなところがあったからねぇー」子どもたちに菖蒲を植えさせる指揮をとったのは父らしい。